竹斯国

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竹斯国(ちくしこく)は、中国史における『隋書』や『北史』にの地域にあったとして現れる国または土地の名称。筑紫国に比定[1]されている。

概要[編集]

竹斯國は『隋書』「巻81 列傳第46 東夷 俀國」と『北史』「巻94 列傳第82」に現れる。遣隋使が持参した俀国(倭国)多利思比孤(『隋書』では多利思北孤)から隋の煬帝へ宛てた国書に現れる「日出處天子(日出る處の天子)」の文章の直後に記述されている。

『隋書』や『北史』における記述[編集]

隋書』明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 行至竹㠀 南望聃羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。
北史』明年 上遣文林郎裴世清使倭國 度百濟 行至竹島 南望耽羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷洲 疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

隋からの使節が経た行路が記述されている。百済→竹島(20世紀後半以降、日韓両国で帰属を争っている島ではない)→対馬→壱岐とへて、「竹斯国」に到着したことになっている。そこから以東は倭国の領域だという。なお、『隋書』に裴清とあり、『北史』に裴世清とあるのは、『隋書』が避諱したのだという。

異説[編集]

通説では、上記中国史料の「其人・・・・・・不能明也」の部分を、秦王国についての説明としているが、以下の説が存在する。

  • 石原洋三郎 [2]によれば、竹斯國(筑紫国)の人を華夏と同じ発祥地の人と捉えたものと考えられるとのこと。

参考文献[編集]

  • 石原道博 編訳 編『魏志倭人伝・後漢書倭伝・ 宋書倭国伝・隋書倭国伝――中国正史日本伝1』(新訂)岩波書店〈岩波文庫 青401-1〉、1985年5月16日。ISBN 4-00-334011-6http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/6/3340110.html  - 和田 & 石原 (1951)の新訂- 注記:石原は、北史は隋書・梁書によっているとのことで、魏志・隋書の脚注において、北史との相違部分を説明している。
  • 邪馬台国 石原洋三郎 令和元年十月 第一印刷

脚注[編集]

  1. ^ 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P72
  2. ^ 邪馬台国 石原洋三郎 令和元年十月 第一印刷 P48-49

関連項目[編集]