竹内鼎三
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竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年(1852年)5月28日[1][2] - 1900年(明治33年)7月26日[1][3][4])は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・伴吉[1][5][6][2]。
経歴
[編集]上野国勢多郡新川村(群馬県[3]勢多郡新川村、南勢多郡新川村[5][7]、新里村[6]、勢多郡新里村[4][5]を経て現桐生市[6])で、竹内小吉郎、なか の二男として生れ[1][5][6][7]、1877年(明治10年)叔父・竹内文五郎が病死したため、その死籍を継承し鼎三と改名した[5][6][7]。学問を好み、村塾で儒学を修め[5]、渡辺真楫から治水造林を学んだ[3][4][5]。
15歳で父に代わって公務に就き、小学校教員、同教頭を務めた[5][6]。学務委員[7]、村吏となり[7]、1880年(明治13年)7月、群馬県会議員に選出され、1891年(明治24年)まで在任し、この間、常置委員、第4代副議長も務めた[3][4][5][6][7]。自由民権運動に加わり、宮口二郎、野村藤太、高津仲次郎、中島祐八らと上毛政社(のち上毛民会)を結成し[5][7]、国会開設運動、条約改正反対運動などに取り組んだ[5][6][7]。
1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(群馬県第1区、弥生倶楽部)で当選し[6][8]、衆議院議員に1期在任した[3][4]。
また、官有林を借りて不二山造林を行い、養蚕飼育、道路の改修、治山治水などに尽力した[5]。
久米民之助の政治顧問に就任[6]。台湾で鉱山事業などを展開したが[3][4]、病となり1900年7月に台南の鳳山病院で死去した[1][5][6][2]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(群馬県第1区、1890年7月、大同倶楽部)落選[8][1][2]
- 第2回衆議院議員総選挙(群馬県第1区、1892年2月、弥生倶楽部)当選[8]
- 第3回衆議院議員総選挙(群馬県第1区、1894年3月、自由党)次点落選[8]
- 第4回衆議院議員総選挙(群馬県第1区、1894年9月、自由党)次点落選[9]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 勢多郡誌編纂委員会 1958, pp. 1000–1001.
- ^ a b c d 新里村誌編纂委員会 1974, pp. 594–600.
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』387頁。
- ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』276頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『群馬県人名大事典』317-318頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『群馬新百科事典』491頁。
- ^ a b c d e f g h 『上毛衆議院議員候補者小伝』4-6頁。
- ^ a b c d 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』18頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』79頁。
参考文献
[編集]- 山中啓一編『上毛衆議院議員候補者小伝』白峰堂、1890年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 勢多郡誌編纂委員会『勢多郡誌』勢多郡誌編纂委員会、1958年。
- 新里村誌編纂委員会『新里村誌』新里村役場、1974年11月3日。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年。