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穴吹夏次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

穴吹 夏次(あなぶき なつじ、1909年7月29日 - 2000年10月24日)は、株式会社穴吹工務店元社長。地方の建築業者だった穴吹工務店を、全国展開のデベロッパーに成長させた。また、穴吹興産学校法人穴吹学園の創業者でもある。

来歴[編集]

穴吹喜作と穴吹ムメの長男として、香川県高松市に生まれる。

1930年1月から家業の土木建築業に従事した。1937年3月に、川添村立川添青年学校の教官に就任する。[要出典]

1940年6月に、京都府警察部で警察官となった[要出典]太平洋戦争中は軍に召集され、ウォレアイ環礁(メレヨン島)で終戦を迎えた[1]1945年10月に復員して、実父の建設業を継承した[要出典]

1961年1月に、穴吹工務店を株式会社に改組する。1964年5月に穴吹興産を設立して、代表取締役社長に就任した。子息の忠嗣(あなぶき興産社長を務めた)によると、穴吹工務店がありながら穴吹興産を創業したのは「資産三分割法」という考え方によるという[1]

1994年に穴吹工務店代表取締役会長となる。

2000年10月24日午後5時35分、高松市内の病院にて死去し、同年11月21日サンメッセ香川にて穴吹工務店社葬、穴吹グループ合同葬が執り行われた。

栄典[編集]

エピソード[編集]

を愛でる社長として知られ、鯉愛好者団体の会長も務めた[2]。年末に配られたカレンダーは錦鯉の大きな写真が入った立派なものであった。

「社長のコイは大正三色3千万」と若手社員に詠われることがあった。「鯉に恋するのは程々に、待遇を改善してください」との暗喩であった。

家族[編集]

2度結婚している[1]。後妻は穴吹学園(穴吹カレッジグループ)元代表の穴吹キヌヱ。キヌヱも再婚者で、北京からの引き揚げ時に前夫を亡くしていた[1]

穴吹英隆(穴吹工務店元社長)、穴吹忠嗣(穴吹興産社長・穴吹カレッジグループ代表)は後妻の子息である。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 新しい「旗じるし」で、市場環境の変化を生き残る。あなぶき興産 代表取締役社長 穴吹 忠嗣さん - ビジネス香川(2010年2月4日)2024年7月5日閲覧。
  2. ^ 歩み - 全日本愛鱗会(「歴代会長」の箇所を参照)