驃騎将軍

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驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)は、中国前漢以降の官職名。軍を率いる将軍位の一つ。票騎将軍と記述されることもある。

前漢の武帝元狩2年(紀元前121年)に霍去病が就任したことに始まり、元狩4年(紀元前119年)には大将軍と同等の秩禄とされた。

続漢書』百官志によれば、常に置かれるわけではなく、反乱の征伐を掌り兵を指揮する。将軍位としては大将軍に次ぎ、車騎将軍衛将軍の上位に当たる。

属官には長史、司馬(各秩禄比千石)、従事中郎(秩禄比六百石)がいる。兵を領する場合、部・曲が置かれる。部には校尉(秩禄比二千石)、軍司馬(秩禄比千石)が置かれる。部の下に曲があり、軍候(秩禄比六百石)が置かれる。曲の下には屯があり、屯長(秩禄比二百石)が置かれる。

三国時代では二品官であった。曹洪司馬懿孫資王昶等が任じられた。蜀漢では馬超李厳呉班等が任じられた。蜀漢の末期には、胡済なる武官を「右驃騎将軍」に任じている。驃騎将軍と併置された官であるか不明である。では初期に歩騭が就任し、その後は朱拠呂拠施績張布朱宣孫楷らに任じている。

北魏では一品官となった。

代には驃騎府・車騎府が府兵制の中核となったため、驃騎将軍は驃騎府の指揮官として府兵を率いた。大業3年(607年)には驃騎府・車騎府が統合され鷹揚府となり、府の指揮官は鷹揚郎将となった。代に入ると驃騎府・車騎府が復活したが、貞観年間に再び折衝府に統合され、府の指揮官は折衝都尉となった。

職名としての驃騎将軍は消滅したが、唐からに至るまで武官の散官の名称として残り続けた。特に唐・では「驃騎大将軍」は武散官の筆頭であった。

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