石脇城
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石脇城 (静岡県) | |
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城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 今川氏または伊勢盛時 |
築城年 | 1476年(文明8年)前後? |
主な改修者 | 不明 |
主な城主 | 伊勢盛時 |
廃城年 | 1487年(長享元年)頃? |
遺構 | 土塁、曲輪、竪堀、虎口 |
指定文化財 | 未指定 |
登録文化財 | 未登録 |
再建造物 | 標柱、解説板あり |
位置 | 北緯34度53分19.1秒 東経138度19分27.1秒 / 北緯34.888639度 東経138.324194度座標: 北緯34度53分19.1秒 東経138度19分27.1秒 / 北緯34.888639度 東経138.324194度 |
地図 |
石脇城(いしわきじょう)は、静岡県焼津市石脇下字山崎にあった日本の城。1476年(文明8年)頃から1487年(長享元年)にかけて伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が滞在した城とされる[1]。
概要
[編集]静岡県中部、静岡平野と志太平野を分断する山塊の一峰、高草山の南側山裾から、瀬戸川の沖積地へ張り出す標高20~30メートルの小丘を縄張とする平山城である。曲輪があった平坦面は「城山八幡宮」と「大日堂」と言う寺社の堂宇が建てられているが、その背後などに腰曲輪、土塁、竪堀、虎口などの遺構が残存する[2][3]。
伊勢盛時(北条早雲)は、駿河の守護・今川義忠の正室北川殿の弟(または兄)であり、1476年(文明8年)に今川義忠が戦死し後継争いの内紛が発生した際、幕府の命により駿河に下向している。伊豆国江梨郷の鈴木氏文書に『早雲寺殿様、駿州石脇御座候[4]』とあることから、当城が盛時の居城であったと考えられている[3]。
盛時は義忠の子・龍王丸(今川氏親)の擁立に成功し、1487年(長享元年)には龍王丸の政敵小鹿範満を討って富士郡下方荘を与えられ、駿河東部へ移動したと考えられることから、石脇の廃城はこの頃と考えられているが[1]、引き続き当城に居住したとする説もある[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 平井聖ほか 編「石脇城」『日本城郭大系第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社、2012年。
- 静岡県教育委員会文化課 編〈静岡県文化財調査報告書 第23集〉1981年。
- 焼津市史編纂委員会 編『焼津市史 資料編2』焼津市、2006年。
- 水野茂 著「石脇城」、『静岡県の城跡』編纂委員会 編『静岡県の城跡-中世城郭縄張図集成-』静岡古城研究会、2012年。
- 黒田基樹 著「伊勢宗瑞論」、黒田基樹 編『伊勢宗瑞』戎光祥出版〈シリーズ中世関東武士の研究・第10巻〉、2013年。