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矢島せい子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
やじま せいこ

矢島 せい子
『女性教養』1960年10月号より
生誕 1903年4月6日
日本の旗 日本 東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草
死没 (1988-01-24) 1988年1月24日(84歳没)
千葉県市川市[1]
出身校 日本女子大学 中退
職業 社会福祉運動家民俗学者
配偶者 矢島祐利
子供 矢島文夫(1928 - 2006)
矢島敬二(1930 - ) 元大学教授
矢島まさ子(1932 - 1937)
矢島敏彦(1934 - 1994) 元大学教授
父:竹芝傳蔵
親戚 弟:沢村国太郎
妹:沢村貞子
弟:加東大介
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矢島 せい子(やじま せいこ、1903年4月6日 - 1988年1月24日[2])は、日本社会福祉運動家民俗学者。障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会初代会長、ヘレン・ケラー賞受賞者[2]

人物・来歴

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1903年(明治36年)4月6日東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に歌舞伎作者・竹芝伝蔵(本名・加藤伝太郎)の娘・加藤せい子として生まれる[2]。弟に俳優の四代目澤村國太郎加東大介、妹に女優の沢村貞子がいる[2]。幼くして叔母の石井家に養女に出され、弟妹たちとは異なる生活を送る[3]

旧制・佐藤高等女学校(現在の女子美術大学付属高等学校)を卒業し[3]日本女子大学家政科に入学する[2]。1922年(大正11年)、同学を中退した[2]。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に被災し、栃木県に疎開する[3]。同地で旧制小学校の代用教員を務め、翌年、小学校本科教員の資格を取得、1925年(大正14年)に旧制・浅草小学校(現在の台東区立浅草小学校)に転勤する[3]

1926年(大正15年)8月、旧制・東京帝国大学(現在の東京大学)に勤務する科学史家の矢島祐利と結婚[2][3]、同年12月、浅草小学校を退職する[3]。文夫、敬二、まさ子、敏彦の4児をもうける[3]。1937年(昭和12年)、まさ子、敏彦が疫痢を患い、まさ子が亡くなる[3]

1941年(昭和16年)、夫が旧制・京城帝国大学(現在のソウル大学校)教授に就任して、日本統治時代の朝鮮京畿道京城府(現在のソウル特別市)に滞在する[4][3]。翌年、京城幼児生活団の活動を始める[3]

第二次世界大戦終結後、帰国して、夫は進駐軍の経済科学局に勤務する[3]。1948年(昭和23年)、夫が東京物理学校(現在の東京理科大学)教授に就任している[4][3]。1952年(昭和27年)、「日本子どもを守る会」が結成されこれに参加する[3]

1953年(昭和28年)、夫との共著『家事と雑用』を岩波書店から上梓する。1967年(昭和42年)、「障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会」を結成、初代会長に就任する[2]。「日本子どもを守る会」副会長にも就任、障害者や児童の福祉に尽くした[2]。1977年(昭和52年)、ヘレン・ケラー賞を受賞した[2]

1988年(昭和63年)1月24日、死去[2][3]。84歳没。墓所は市川市霊園。没後に回想録が多く出版された。夫の祐利は1995年に没した。子息の文夫オリエント学者京都産業大学宮城学院女子大学教授を歴任、敬二は東京理科大学教授、敏彦(1994年没)は埼玉大学教授となった。

主な著作

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国立国会図書館蔵書[5]

  • 『家事と雑用』、共著矢島祐利、岩波婦人叢書、岩波書店、1953年
  • 『矢島せい子のくらしの歳時記』、労働教育センター、1979年8月
  • 『わたしの思い出』、ドメス出版、1988年1月
  • 『日本の食べものよもやま話』、労働教育センター、1988年5月 ISBN 4845000237
  • 『矢島せい子の足跡』、共著矢島祐利、ドメス出版、1989年1月
  • 『あらくさの花』、共著矢島祐利、ドメス出版、1989年12月

論文

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  1. ^ 矢島せい子 略歴と主な著書、JCN市川、2011年5月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 矢島せい子、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2009年11月23日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 矢島せい子年譜、うずら文庫、矢島敬二、2009年11月23日閲覧。
  4. ^ a b 矢島祐利、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2009年11月23日閲覧。
  5. ^ OPAC NDL 検索結果、国立国会図書館、2009年11月23日閲覧。

外部リンク

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