真田綱吉
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正7年(1510年) |
死没 | 元亀2年(1571年) |
別名 | 十郎左衛門、海野左馬允 |
戒名 | 壽泉院眞相勸喜大禪定門 |
墓所 | 高野山蓮華定院? |
官位 | 左馬允、右馬助 |
主君 | 武田信玄 |
氏族 | 真田氏 |
父母 | 父:真田頼昌(異説あり) |
兄弟 | 綱吉、幸隆、矢沢頼綱、常田隆永、鎌原幸定、海野幸景、萩原綱重[1] |
妻 | 正室:深井棟広の娘・深井殿 |
子 | 深井綱重? |
真田 綱吉(さなだ つなよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。武田氏の侍大将、海野衆に名を連ねる。
生涯
[編集]海野氏は天文10年(1541年)の海野平の戦いにおいて当主である海野棟綱の子・幸義が戦死し、海野氏は一時断絶する[2]。白鳥神社系「海野系図」に拠れば幸義の子息や兄弟の名を載せているが、『甲陽軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)に武田信玄は信濃先方衆である海野氏をはじめ仁科氏、高坂氏らを征伐し、信玄の次男・竜宝(海野信親)に海野氏を継承させた[3]。
永禄8年(1567年)8月、信玄は武田家臣団に対して生島足島神社に起請文を提出させ(「生島足島神社文書」)、海野氏では幸貞が単独で、幸忠・信守が連名で起請文を提出し、さらに海野被官や海野衆も起請文を提出している[3]。海野衆には海野幸光や上尾房友と並んで真田綱吉の名も見られ、全部で12人が連名して提出している[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。ISBN 464205202X。