男衾三郎絵詞

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「男衾三郎絵詞」第二段の笠懸の場面。笠懸は本作と「伊勢新名所絵合」の異本1本にのみしか描かれず貴重。

男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろうえことば)は、日本の鎌倉時代に描かれた絵巻物。1巻、東京国立博物館蔵、重要文化財。「男衾三郎絵巻」( - えまき)ともいう。

概略[編集]

兄・吉見二郎と弟・男衾三郎という対称的な武士兄弟と、その家族の物語。武蔵大介という有力武士に吉見二郎と男衾三郎という兄弟がいた。兄二郎は都風の優雅な生活をおくる「色好み」の男で、都から上臈を迎えて妻とし、観音に祈願して美しい姫・慈悲を授かる。慈悲の美貌は関八州で評判となり、数ある求婚者の中で上野国の大名の子息・難波の太郎が選ばれた。陰陽師に吉日を占わせると3年後の8月11日と出て、両者ともこれを承諾した(第1段)。一方、無骨一辺倒な弟三郎は、美人を妻とするのは短命だとして、坂東一の心身とも醜悪で身長が七尺もある醜女を妻とし、醜い男子3人娘2人をもうける(第2段)。たまたま兄弟が大番役で上京の途中、遠江国の高師山(現在の湖西市から豊橋市にかけての丘陵地)で山賊に襲われ、二郎は落命する(第3段)。郎党家綱はその頚と形見を吉見邸に届ける途中、休憩した駿河国清見関で観音の示現にあい(第4段)、残った母子に主人の死を知らせる(第5段)。ところが、三郎は兄の遺言に反して館や所領横領し、その妻子を下働きに酷使する。難波の太郎には、慈悲母子は悲しみのあまり死んだと偽り、自分の娘を妻合わせようとするが、太郎は母子の後世を祈るため出家し旅に出る(第6段)。たまたま男衾の館を訪れた新任の国司は、端女の慈悲を見て恋い慕う。しかし、三郎夫婦は再び謀って自分の娘を出すが、国司は相手にしなかった(第7段)。

ここまで話が終わってしまうが、これは元々2巻構成で、後巻が失われたためだとみられる。失われた後半はおそらく中世物語の通例で、観音によって慈悲が救済されたと推測されるが、後半部分は模写などを含めて全く見つかっていない。また第6段の絵が欠落しているが、その断簡[1]や模写が同じ東京国立博物館に所蔵されている。

制作時期は、永仁3年(1295年)頃に制作された「伊勢新名所絵歌合」(神宮徴古館蔵、重要文化財)と強い共通性があり、本作のほうが表現が手馴れていることから、同じ工房により少し後に制作されたと推測される。吉見・男衾は実際に武蔵国にある地名で、前者は吉見氏、後者は畠山重忠一族が領していた。両者は文治元年(1187年)に伊勢国沼田御厨をめぐって争論となっており、本絵巻のモデルになっているとも考えられる。

特に第2段は鎌倉時代の武士の様子を生き生きと描き、よく図版として使われる。一方で、馬小屋の隅に生首を絶やすな、首を切って懸けろ、屋敷の門外を通る修行者がいたら蟇目鏑矢で追い立て追物者にしてしまえ、といった非人道的な描写があり、これに鎌倉武士の残虐性を指摘する意見もある[2]

ギャラリー[編集]

全図

参考文献[編集]

  • 石黒吉次郎 「武家の物語の生成 -『男衾三郎絵詞』『多田満仲』から-」『専修人文論集』第39号、専修大学出版局、1987年2月28日、pp.55-84
  • 黒田日出男 「第四五回大会特別講演 描かれた風俗-『男衾三郎絵詞』を中心に-」『風俗史学』29号、日本風俗史学会、2005年1月30日、pp.3-37
  • 岡部恵理子 「「男衾三郎絵巻」再考-ー望ましき当主像をめぐって」『哲学会誌』第36号、学習院大学哲学会、2012年5月、pp.53-78

脚注[編集]

  1. ^ 男衾三郎絵詞断簡
  2. ^ 黒田日出男 『姿としぐさの中世史―絵図と絵巻の風景から』 平凡社〈平凡社ライブラリー445〉、2002年、pp.182-183。本郷和人 『新・中世王権論 武門の覇者の系譜』 新人物往来社、2004年12月10日、pp.34-37、など。
  3. ^ 黒田(2005)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]