田口広麻呂

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田口 広麻呂(たぐち の ひろまろ)は、飛鳥時代貴族朝臣位階従五位下

出自[編集]

田口朝臣(田口氏)は『新撰姓氏録』「左京皇別」によると、「石川朝臣同祖。武内宿禰大臣之後也」とあり、「蝙蝠臣」という者が豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)の御世に、大和国高市郡田口村(現在の奈良県橿原市和田町付近)に家をおこしたので、「田口臣」と号するようになったという。この「蝙蝠臣」は蘇我田口川堀と同一人物とされている[1][2]

経歴[編集]

続日本紀』巻第三によると、文武天皇慶雲2年12月(706年)、同じ従六位下佐伯男阿倍真君巨勢小邑治紀男人らととも四階昇進して従五位下叙爵する[3]

史書に名前が登場するのは以上であるが、『万葉集』巻第三には、以下のような和歌が収載されている。

田口広麻呂(たぐちのひろまろ)の死ぬる時に、刑部垂麻呂(おさかべのたりまろ)の作る歌一首

百足(ももた)らず 八十隅坂(やそくまさか)に 手向(たむけ)せば 過ぎにし人に けだし逢はむかも

((百足らず)曲がり角の多い坂で、神にお供え物をしたら 死んでいった人に ひょっとして逢えるだろうか)[4]

ここで、田口広麻呂の姓が省略されているのと、五位以上の官人である広麻呂の死去が、六位以下の庶民の没する場合に用いられる「死」という語で表記されている理由は不明である[5]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本古代氏族事典』p291 - p292
  2. ^ 「蝙蝠」と書いて、「かわぼり」とも読む
  3. ^ 『続日本紀』文武天皇 慶雲2年12月27日条
  4. ^ 『万葉集』、427
  5. ^ 小学館『萬葉集』(一)、p317注三

参考文献[編集]