王淩の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王淩の乱(おうりょうのらん)は、中国三国時代嘉平3年(251年)に、王淩司馬懿の一族に対して起こした反乱であり、寿春三叛と総称される3つの反乱のうちの第一の反乱である。

背景[編集]

王淩の乱は、寿春三叛のうちの他の2つの反乱(毌丘倹・文欽の乱諸葛誕の乱中国語版)と同様に、司馬懿一族が高平陵の変において国家の政治権力を奪取した後に発生した反乱である。王淩は、魏の声望ある武将であり、正始元年(240年)ころに征東将軍に任ぜられ、揚州の軍務を担っていた。

正始2年(241年)、全琮が数万の兵を率いて魏の芍陂を攻撃した際、王淩は、軍を率いて数日にわたって戦い、呉軍を撃退した。この功績によって、王淩は、南郷侯に封ぜられ、車騎将軍に昇進し、1,350戸を賜与された。

このころ、王淩の外甥の令狐愚は、功績があって兗州刺史に任ぜられており、平阿に駐屯していた。王淩と令狐愚は、いずれも淮南において極めて威望があった。王淩は、直ちに司空に抜擢された。司馬懿が高平陵の変において曹爽一族を誅滅した後、王淩は、太尉に任ぜられ、節鉞中国語版を仮されたが、入朝せず、従前通り揚州防衛の任に当たった。王淩と令狐愚は、皇帝曹芳が君主としての器にないものとみなし、楚王曹彪を即位させて許昌を都に定める計画を謀議した。

嘉平元年(249年)9月、令狐愚は、武将の張式を白馬に派遣して曹彪と連絡を取らせ、王淩もまた、舎人労精洛陽に派遣して、子の王広中国語版に計画を伝えさせたが、王広は、同意しなかった[1][2][3]

経過[編集]

嘉平元年(249年)11月、令狐愚は、再び張式を派遣して曹彪と連絡を取らせたが、張式が未だ帰らないうちに令狐愚が病死した。

嘉平2年(250年)、火星が南斗六星に接近した際、王淩は、「南斗の中に星がある。突然、富貴となる人が現れるであろう」と述べた[4][5]

嘉平3年(251年)春、呉軍が涂水に駐屯したため、王淩は朝廷に上奏して呉軍を攻撃することの許可を求め、反乱を隠蔽しようと企てた。司馬懿は、王淩の意図を察知して、回答しなかった。王淩は、武将の楊弘を派遣して、兗州刺史の黄華に廃立の計画を通知しようとしたが、楊弘と黄華はこの計画を司馬懿に対して暴露した。令狐愚が病を得た際、治中従事楊康は呼びかけに応じて洛陽に出向いたが、楊康もまたこの計画を暴露したのであった。4月、王淩による謀反の計画は、皇帝曹芳の知るところとなった[6]

司馬懿は、直ちに軍を率いて水路を進み、王淩を攻撃した。司馬懿は、まず王淩を赦免する旨の命令を発し、王淩に使者を派遣して投降を呼びかけるとともに、自らは王淩の本営から百尺の距離に進軍して、王淩を圧迫した。王淩は、自らの浅慮を悟り、抵抗することを放棄して、王彧を派遣して謝罪し、印綬と節鉞を届けさせた[7]

司馬懿の次男の安東将軍司馬昭は、命を奉じて淮北諸軍事を督し、軍を率いて項城にて司馬懿とまみえた。司馬懿が丘頭を過ぎ百尺堰に至った時、王淩は、自らの身体を縄で縛って、罪を悔いる旨を示した。司馬懿は詔書を奉じて主簿中国語版を派遣し、王淩の縄を解いて慰労し、印綬と節鉞を返還した。王淩は、自らが許されたものとみなして、小舟に乗って司馬懿にまみえようとしたが、司馬懿の使者によって阻止されて十余丈の外に留め置かれた。王淩が「貴殿は短い手紙で私を呼び出したが、私はどうして来ないことがあろうか(必ず来る)。何のために軍を引き連れてきたのか」と怒鳴ると、司馬懿は「なぜなら、貴殿は短い手紙で呼び出されるような人ではないからだ」と述べた。王淩が「貴殿は私に背いた」と述べると、司馬懿は「私が貴殿に背くことがあったとしても、国家に背くことはない」と述べた[8]。ここにおいて、王淩は自らが重罪を犯したことを悟り、司馬懿に対して棺を作成するための釘を求めたところ、司馬懿はこれを王淩に授けた[9]。司馬懿は600人を派遣して王淩を洛陽に押送したが、5月、項城を過ぎたあたりで、王淩は、服毒自殺した[10][11][12]

司馬懿が寿春に至ると、張式らは次々と自首した。単固中国語版は、令狐愚の別駕中国語版であり、この計画を知っていたが、病により辞職していた。この時、単固は司馬懿とまみえ、司馬懿が単固に対して計画を知っていたかどうか尋ねたところ、単固は知らなかったと述べた。また、令狐愚に謀反の動きがあったかどうかを司馬懿が尋ねたところ、単固は否定した。その後、楊康によって事件への関与の証拠が提出されたことにより、単固は部下とともに廷尉の獄に繋がれたが、最後まで罪を認めなかったため、司馬懿が楊康を派遣して尋問したところ、単固は言葉に詰まったが楊康を大いに罵った。楊康は、自首したことによって封爵されて官位を拝したが、却って言葉が脱落したため単固らとともに斬刑に処された。朝廷は、曹彪に対して死を賜り、その部下で謀議に加わった者は全て誅殺された。王淩と令狐愚の遺体が墓から掘り返されて3日間にわたって野ざらしにされ、印綬や朝服は全て燃やされて埋められた。

結果[編集]

司馬昭は、王淩の乱を平定した功績によって、300戸を加増され、金印紫綬を仮された。司馬昭の次男の司馬攸は、従軍の功績によって、長楽亭侯に封ぜられた[13]

王淩の乱の後、魏の多くの官僚は、司馬氏による処置が厳格であることを理解し、司馬氏を支持する者と宗室を支持する者とに分かれる原因となった。王淩の乱は、その後の毌丘倹・文欽の乱と諸葛誕の乱に対しても強い影響を及ぼしており、同様に、司馬氏を打倒して皇帝の権力を回復することを旗印に決起することに繋がった。

高平陵の変の前に仮病を装っていた司馬懿は、王淩の乱の間に、真に病を得て、嘉平3年(251年)9月に死亡した。長男の司馬師が摂政としての地位を継承し、直ちに毌丘倹・文欽の乱に臨むこととなった。

脚注[編集]

  1. ^ 陳寿『三国志』巻二十八魏書二十八・王毌丘諸葛鄧鍾伝:廃立大事,勿為禍先。
  2. ^ 習鑿歯『漢晋春秋』提供了一種説法称王広写了封長回信給父親,称曹爽及其党羽失去人心所以倒台,而司馬懿的政策更受歓迎,且司馬氏手握重兵,難以撼動。
  3. ^ 裴松之在『三国志』注中認為此説是習鑿歯杜撰,因此信的語調及筆法与当時人的写信習慣不同。
  4. ^ 陳寿『三国志』巻二十八魏書二十八・王毌丘諸葛鄧鍾伝:斗中有星,当有暴貴者。
  5. ^ 裴松之注陳寿『三国志』巻二十八魏書二十八・王毌丘諸葛鄧鍾伝:魏略曰:淩聞東平民浩詳知星,呼問詳。詳疑淩有所挟,欲悦其意,不言呉当有死喪,而言淮南楚分也,今呉・楚同占,当有王者興。故淩計遂定。
  6. ^ 陳寿『三国志』巻四魏書四三少帝紀第四
  7. ^ 裴松之注『三国志』巻二十八魏書二十八・王毌丘諸葛鄧鍾伝:魏略載淩與太傅書曰:「卒聞神軍密発,已在百尺,雖知命窮尽,遅於相見,身首分離,不以為恨,前後遣使,有書未得還報,企踵西望,無物以譬。昨遣書之後,便乗船来相迎宿丘頭,旦発於浦口,奉被露布赦書,又得二十三日況,累紙誨示,聞命驚愕,五内失守,不知何地可以自処?僕久忝朝恩,歴試無効,統御戎馬,董斉東夏,事有闕廃,中心犯義,罪在三百,妻子同県,無所祷矣。不図聖恩天覆地載,横蒙視息,復睹日月。亡甥令狐愚携惑群小之言,僕即時呵抑,使不得竟其語。既人已知,神明所鑒,夫非事無陰,卒至発露,知此梟夷之罪也。生我者父母,活我者子也。」又重曰:「身陥刑罪,謬蒙赦宥。今遣掾送印綬,頃至,当如詔書自縛帰命。雖足下私之,官法有分。」
  8. ^ 房玄齢等『晋書』巻一帝紀第一:淩計無所出,乃迎於武丘,面縛水次,曰:「淩若有罪,公当折簡召淩,何苦自来邪!」帝曰:「以君非折簡之客故耳。」
  9. ^ 裴松之注『三国志』巻二十八魏書二十八・王毌丘諸葛鄧鍾伝:太傅使人解其縛。淩既蒙赦,加怙旧好,不復自疑,逕乗小船自趣太傅。太傅使人逆止之,住船淮中,相去十餘丈。淩知見外,乃遙謂太傅曰:「卿直以折簡召我,我当敢不至邪?而乃引軍来乎!」太傅曰:「以卿非肯逐折簡者故也。」淩曰:「卿負我!」太傅曰:「我寧負卿,不負国家。」遂使人送来西。淩自知罪重,試索棺釘,以観太傅意,太傅給之。
  10. ^ 裴松之注『三国志』巻二十八魏書二十八・王毌丘諸葛鄧鍾伝:行年八十,身名並滅邪!
  11. ^ 裴松之注『三国志』巻二十八魏書二十八・王毌丘諸葛鄧鍾伝。干宝『晋紀』更注釈称王淩自殺前在項経過賈逵廟,大呼:「賈梁道!只有神知道王淩是大魏忠臣!」
  12. ^ 房玄齢等『晋書』巻一帝紀第一:賈梁道!王淩是大魏之忠臣,惟爾有神知之。
  13. ^ 尽管根拠『晋書』本伝記載,当時司馬攸僅六歳