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  • 西園寺公望のサムネイル
    としており、このため朝廷の儀式を学ぶことや、西園寺家の家業である琵琶の練習は役に立たないとしてたいへん嫌っていため、家臣たちを心配させと回想している。 しかし西園寺は若年でもあり、岩倉や三条実美のように幕末における倒幕活動に強く参画していわけではなか
    138キロバイト (21,462 語) - 2024年6月2日 (日) 17:51
  • 西園寺家のサムネイル
    なか西園寺家にとって重要な収入源になってい西園寺公望は琵琶が嫌いで家臣たちを心配させという)。西園寺家には官位持ちの諸大夫5家と侍4家が家臣として仕えてい。一条家の家礼だっ。 幕末に同じ閑院流の徳大寺家から養子に入っ
    32キロバイト (2,297 語) - 2024年3月29日 (金) 02:01
  • 第1次西園寺内閣のサムネイル
    前内閣の第1次桂内閣は、議会に明確な政権与党を持たない超然主義体制で発足したが、日露戦争を遂行するにあたり、衆議院第一党の立憲政友会(西園寺公望総裁)の協力を仰ぎ、将来の政権禅譲を念頭に国策に協力、事実上の閣外協力状態にあっ(桂園時代)。桂首相は大戦中から、政友会の党務を統括してい
    17キロバイト (1,559 語) - 2024年3月12日 (火) 01:26
  • 第2次西園寺内閣のサムネイル
    第2次西園寺内閣(だいにじ さいおんじないかく)は、立憲政友会総裁の西園寺公望が第14代内閣総理大臣に任命され、1911年(明治44年)8月30日から1912年(大正元年)12月21日まで続い日本の内閣。 国務大臣 1911年(明治44年)8月30日任命。在職日数480日(第1次、2次通算1,400日)。…
    11キロバイト (719 語) - 2023年9月12日 (火) 20:32
  • 西園寺 鏱子(さいおんじ しょうし)は、第92代天皇・伏見天皇の皇后(中宮)。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての京極派の代表的歌人。従一位太政大臣西園寺実兼の長女。母は内大臣中院通成の娘、顕子。女院号は永福門院(えいふくもんいん/ようふくもんいん)。法名は真如源。 次妹の西園寺
    4キロバイト (343 語) - 2022年8月28日 (日) 07:02
  • 西園寺公一のサムネイル
    西園寺 公一(さいおんじ きんかず、1906年(明治39年)11月1日 - 1993年(平成5年)4月22日)は、日本の政治家、実業家。参議院議員(1期)、外務省嘱託職員、太平洋問題調査会理事などを歴任した。ゾルゲ事件に連座して逮捕、有罪となり、公爵家を廃嫡となっ。…
    21キロバイト (2,977 語) - 2024年4月7日 (日) 22:54
  • 立命館大学のサムネイル
    立命館大学 (西園寺文庫からのリダイレクト)
    。そして大学昇格に必要な書籍を寄付するなど、物理的な面でも支援を惜しまなか。また、愛新覚羅溥儀からの立命館への巨額の寄付(衣笠キャンパスは溥儀の寄付により作られ)も、西園寺の人脈が生み出した結果である。 中川が「立命館」の名称を用いることを西園寺に申し出際、西園寺
    211キロバイト (27,316 語) - 2024年6月17日 (月) 23:34
  • 西園寺公相のサムネイル
    西園寺 公相(さいおんじ きんすけ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。太政大臣・西園寺実氏の二男。官位は従一位・太政大臣。冷泉相国と号す。西園寺家では初めて左大臣に任ぜられ。 元仁2年(1225年)、従五位下に叙爵。1232年-1233年に従四位上・左近衛中将。文暦2年(1235年)には播磨介と、国司も務める。…
    9キロバイト (1,271 語) - 2023年3月17日 (金) 11:31
  • 西園寺 嬉子(さいおんじ きし、藤原 嬉子(ふじわら の きし)、1252年〈建長4年〉- 1318年5月26日〈文保2年4月25日〉)は、鎌倉時代の女性。亀山天皇の中宮。女院号は今出川院(いまでがわいん、今出河院)。 太政大臣西園寺公相の女。生母は大外記中原師朝の女。同母兄に太政大臣西園寺
    3キロバイト (289 語) - 2024年2月16日 (金) 05:33
  • 西園寺実兼のサムネイル
    西園寺 実兼(さいおんじ さねかね/さねかぬ)は、鎌倉時代後期の公卿。太政大臣・西園寺公相の長男。官位は従一位・太政大臣。西園寺入道前相国、又は北山入道相国と号す。 文永6年(1269年)、祖父西園寺実氏の家督を継ぎ関東申次に就く。大覚寺統・持明院統による皇位継承問題などで鎌倉幕府と折衝にあたる。正…
    14キロバイト (2,256 語) - 2023年8月27日 (日) 14:33
  • 西園寺禧子のサムネイル
    西園寺 禧子(さいおんじ きし/さちこ)は、第96代天皇・後醍醐天皇の皇后(中宮)、のち皇太后。正式な名乗りは藤原 禧子(ふじわら の きし/さちこ)。女院号は初め持明院統(後の北朝)より礼成門院(れいせいもんいん)と称されるが、のちにそれは廃され、崩御後同日に建武政権(後の南朝)より後京極院(ご…
    128キロバイト (20,086 語) - 2024年5月4日 (土) 13:19
  • 立憲政友会のサムネイル
    立憲政友会 (カテゴリ 西園寺公望)
    西園寺・原・松田の幹部3人が桂とひそかに接触、戦後は政友会に政権を譲る方向で話をまとめる。1905年8月28日にポーツマス条約が締結されると、これに反対する民衆の暴動(日比谷焼き討ち事件)が発生したが、政友会は原の引き締めによりこれに加わらなか。1906年1月7日、第1次西園寺内閣が成立する。…
    52キロバイト (7,905 語) - 2024年5月1日 (水) 07:46
  • のも、皇室の生まれでなく治天の君となっのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。 正応5年(1292年)、従一位左大臣西園寺公衡と従一位藤原兼子の間に出生した。母兼子は藤原氏の下級貴族の出自だっが、父公衡の西園寺
    11キロバイト (1,824 語) - 2024年4月17日 (水) 15:33
  • 西園寺公衡のサムネイル
    西園寺 公衡(さいおんじ きんひら)は、鎌倉時代後期の公卿。太政大臣・西園寺実兼の子。官位は従一位・左大臣。竹林院左大臣、または竹中と号する。 弘安6年(1283年)に参議、権大納言、内大臣等を経て、延慶2年(1309年)に左大臣を務める。正安元年(1299年)右大臣に就き、更に父・実兼の関東申次を…
    9キロバイト (1,222 語) - 2024年5月17日 (金) 12:26
  • 後深草天皇のサムネイル
    後嵯峨天皇の皇子。母は中宮・西園寺姞子(大宮院)。北朝(持明院統)かつ今日の皇室の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の北朝と亀山系の南朝(大覚寺統)による対立が生じる端緒となっ。『増鏡』などでは内裏焼亡のさいに足が立たなかたなどと書かれている。…
    12キロバイト (1,445 語) - 2024年3月6日 (水) 09:20
  • 原敬のサムネイル
    原敬 (カテゴリ 暗殺され政治家)
    1908年(明治41年)6月27日、西園寺は病気を理由に辞意を原らに伝え。原は続投を求めが、西園寺は受け入れなか。原による内務省と地方の掌握は、勢力均衡を旨とする元老にとってはやりすぎと映っており、西園寺も元老の支持が失われていことを感じてい。原は西園寺に対して不満を持ち、伊藤に最接近して西園寺
    93キロバイト (15,382 語) - 2024年6月5日 (水) 21:41
  • 西園寺が最後の元老として活動することになっ。この後、15年にわたって単独の元老であっため、「元老」は西園寺を指す代名詞となっ。 松方の存命中から元老の補充に関してはたびたび問題となっており、牧野が行っ「御下問範囲拡大」もその一つである。しかし西園寺は新たな元老を加えようとはしなか
    57キロバイト (8,844 語) - 2024年1月21日 (日) 04:16
  • マジックをかばって負傷。しかしカタブツは被害届を出さなか。辻本は「水族館」最終営業日に来店しており、キャバクラ嬢と客という元の関係に戻っている。 イルカ / ヨガ 演 - 入山杏奈(第8話から出演) 笹島が仕向け男たちに襲われさくらを助け、その後「水族館」のキャバクラ嬢となる。西園寺
    40キロバイト (5,386 語) - 2023年10月13日 (金) 10:32
  • 西園寺 公広(さいおんじ きんひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊予国の戦国大名。伊予西園寺氏8代当主。黒瀬城主。西園寺十五将の一人。 天文6年(1537年)西園寺公宣の子として誕生。もともとは伊予来住寺で僧籍にあっが、弘治2年(1556年)当主であっ伯父・西園寺
    4キロバイト (413 語) - 2024年3月29日 (金) 01:32
  • 松田正久のサムネイル
    西園寺や星、原など同志を前面にてて自身は裏方に徹した。原は松田の立ち回りの上手さへの不満を日記に記す一方で、その仕事ぶりを評しており、西園寺が次期総裁に推薦するのも当然と考えてい。原は松田の急死によって後継総裁に就任するが、戸惑いを隠せなかという。 清貧でスキャンダルとは無縁だっ
    11キロバイト (1,197 語) - 2024年4月2日 (火) 09:39
  • なかりければ、うれしき中に思ひ有て、焼野の雉の残る叢を命にて、雛を育らむ風情にて、泣声をだに人に聞せじと、口を押へ乳を含て、同枕の忍びねに、泣明し泣暮して、三年を過し給し心の中こそ悲しけれ。其後建武の乱出来て、天下将軍の代と成しかば、此人朝に仕へて、西園寺
  • 第1次桂内閣は、1905年に退陣し、立憲政友会の総裁である西園寺公望(さいおんじ きんもち)に政権をゆずっ。 そして1906年に西園寺内閣(第1次)が組織され西園寺内閣は、日本国内の鉄道建設を大いに行っ。 1906年以降から1913年まで、西園寺と桂が数年おきに交互に政権を交代する結果になっ
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