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2019年8月30日 (金) 13:32時点における版

高木 正陳(たかぎ まさのぶ、寛文5年(1665年) - 元文6年2月5日1741年3月21日))は、河内丹南藩の第6代藩主。

第4代藩主・高木正盛の次男。母は板倉重矩の娘。正室は本多正永の娘。子に高木正府(長男)、板倉勝里(次男)、娘(谷衛衝正室)、娘(遠山友由正室)、娘(永井直堯正室)、娘(服部保弘正室)。通称は大学。官位は従五位下、主水正。

天和元年(1681年)7月11日、先代藩主で兄の正豊が嗣子無くして若死にしたため、その跡を継いだ。同年7月22日、将軍徳川綱吉にお目見えする。元禄2年(1689年)5月14日、大番頭に就任する。同年12月27日、従五位下主水正に叙任する。元禄12年2月2日、河内国丹南郡内の領地の一部を下野国足利郡内に移される。正徳元年(1711年)1月11日、奏者番に就任する。元文6年(1741年)正月に病に倒れ、2月5日に死去した。享年77。跡を養嗣子の正恒が継いだ。墓所は東京都杉並区永福の栖岸院。

茶人であり、一尾伊織の門人の一人であった。