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'''インペラトル'''({{Lang-la|imperator}}、インペラートル)は、[[古代ローマ]]とくに[[共和政ローマ]]における[[ローマ軍]][[最高司令官]][[将軍]]の称号である。のちに皇帝もしくは帝権保持者の[[称号]]となり、[[ローマ帝国]]における[[皇帝]]あるは帝権の一部を成した。共和政期には対外戦争で成功を収めた軍事指導者の称号としても使れた。字義的には「[[インペリウム]]を保持する者」という意味で、平時における「最高命令権者」あるいは戦時における「最高司令官」のことを指す
'''インペラトル'''({{Lang-la|imperator}}、インペラートル)は、[[インペリウム]](命令権)を付与された公職者であるこを意味する[[ラテン語]]<ref name="世界歴史大事典">[インペラトル]『[[世界歴史大事典]][[教育出版]]</ref><ref name="世界大百科事典">[インペラトル]『[[世界大百科事典]][[平凡社]]</ref><ref name="大日本百科事典">[インペラトル]『[[大日本百科事典]]』小学館</ref>。[[古代ローマ]]において、対外戦争で成功を収めた軍司令官(凱旋将軍)の称号としても用いられた<ref name="世界大百科事典" />


== 定義と特徴 ==
== 概要 ==
[[Image:Hw-augustus.jpg|200px|right|thumb|アウグストゥス<br>彼は軍事的成功者に与えられる名誉的な称号であったインペラトルを異例にも個人名として使用した]]
[[Image:Hw-augustus.jpg|200px|right|thumb|アウグストゥス<br>彼は軍事的成功者に与えられる名誉的な称号であったインペラトルを異例にも個人名として使用した]]
インペラトルは本来的には命令権の所在を示す言葉で、初代皇帝[[アウグストゥス]]以降、皇帝(正確には[[元首]]である[[プリンケプス]] princeps)の個人名に使われるようになった。このことから「[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]」「[[カエサル (称号)|カエサル]]」などとともに最高権力者の肩書きとして認識されるようになった。たとえばおよそ120年ごろの成立とされる[[スエトニウス]]の『[[ローマ皇帝伝]]』では皇帝を指すのに、「[[プリンケプス]]」「[[カエサル (称号)|カエサル]]」「インペラトル」と3通りに呼び、統一していない。


インペラトルとは、[[元老院 (ローマ)|元老院]]より[[インペリウム]](命令権)を付与された公職者であることを意味する[[古代ローマ]]の言葉である<ref name="世界歴史大事典" /><ref name="世界大百科事典" /><ref name="大日本百科事典" />。元老院は、元老院の決定を執行する者として各地にインペラトル(命令権保持者)を派遣し、[[ローマ]]から遠く離れた地域へもローマの支配を行き渡らせた<ref>[[#吉村2003|吉村2003]]、pp.53-54。</ref>。
中国的な皇帝号との対応を考えると、もともと字義的に「[[絶対神]]」「[[主宰神]]」を意味する皇帝が基本的に一者であると理念されていたのに対し、インペラトルは同時に複数存在してもかまわないものであった。[[タキトゥス]]によれば、[[ティベリウス]]帝の治世までは皇帝以外にも何人かインペラトルの称号を許された例がある。これに従えば、徐々に元首の帯びる称号として固定されていったようである。


インペリウムの適用範囲が次第に縮小されて「属州における軍事指揮権」ほどの意味となると、インペラトルも実質的には[[ローマ軍]]の軍司令官を意味する言葉となった<ref name="大日本百科事典" />。戦争に勝利したインペラトルは、凱旋時に市民から「インペラトル」の歓呼で迎えられた<ref name="世界歴史大事典" /><ref name="ブリタニカ国際大百科事典">[インペラトル]『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]』[[TBSブリタニカ]]</ref><ref name="世界大百科事典" />。インペリウム(軍事指揮権)には有効期限があるため通常はインペリウムの失効とともに「インペラトル」を名乗ることもできなくなるのだが、市民から「インペラトル」の歓呼で迎えられた凱旋将軍は、任期中に限ってインペリウム失効後にも「インペラトル」を名乗ることが許されていた<ref name="世界歴史大事典" /><ref name="ブリタニカ国際大百科事典">[インペラトル]『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]』[[TBSブリタニカ]]</ref>。[[紀元前189年]]に[[ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス]]がインペラトルの称号で呼ばれているのが確認できる最初の例である<ref name="世界歴史大事典" /><ref name="日本大百科全書">[インペラトル]『[[日本大百科全書]]』[[小学館]]</ref><ref name="木村ら1998p9">[[#木村ら1998|木村ら1998]], p.9。</ref>。一説には[[紀元前209年]]に[[イベリア半島]]を制圧した[[大スキピオ]]をインペラトルと叫ぶ歓呼が起こったともされるが、これが事実であるかは疑わしいとされている<ref name="木村ら1998p9" />。[[共和政ローマ|共和政]]末期には[[スッラ]]、[[ポンペイウス]]、[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]といった権力者たちが好んでインペラトルを名乗った<ref name="世界大百科事典" />。ポンペイウスは自身が3度「インペラトル」と呼ばれたことを強調し<ref name="木村ら1998p9" />、カエサルは「インペラトル」を終身のものとして使用した<ref name="木村ら1998p9" /><ref name="日本大百科全書" /><ref name="マイペディア">[インペラトル]『[[マイペディア]]』平凡社</ref>。[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]](後のアウグストゥス)も[[紀元前43年]]以降たびたびインペラトルの称号を帯び<ref name="世界歴史大事典" />、[[紀元前29年]]には[[元老院 (ローマ)|元老院]]より「インペラトル」を個人名の一部として使用することが認められた<ref name="世界歴史大事典" />。
またインペリウムは字義通りには最高命令権であるが、重い権威も伴っていたことが指摘されている。一般にローマ人は権威を重視していたとされており、たとえば[[コンスル]]や[[プラエトル]]などの政局担当の最高責任者がインペリウムを帯びているとされていた。インペリウムはのちには最高命令権の対象としての被統治地域・民衆・政権としての「帝国」という意味合いをもった。


オクタウィアヌスには後に「[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]](尊厳なる者)」の称号も贈られ、後の世で一般に最初の[[ローマ皇帝]]であると認識されている。アウグストゥスの後継者たちは当初はインペラトルとは名乗らなかったが<ref name="世界歴史大事典" />、[[ウェスパシアヌス]]がインペラトルを名乗って以降にはインペラトルも[[プリンケプス]](市民の第一人者、[[帝政]]期においてはローマ皇帝のこと)が名乗る[[古代ローマの人名|名前]]の一部として定着した<ref name="世界大百科事典" />。一方でローマ皇帝は「凱旋将軍」の意味としてもインペラトルの語を用い続け、部下の戦勝を自己の栄誉として「インペラトル何回」と数えた<ref name="日本大百科全書" />。ただしインペラトルは特定の官職ではないため定員という考え方はなく<ref name="世界大百科事典" />、同時に何人もの人物にインペラトルを名乗らせることが可能であった<ref name="木村ら1998p28">[[#木村ら1998|木村ら1998]], p.28。</ref>。慣習的にも、インペラトルは勝利に歓喜した軍団兵士の声によって自然発生的に誕生するものと認識されていた<ref name="木村ら1998p28" />。アウグストゥスも配下の将軍の何人かにインペラトルを名乗らせており<ref name="木村ら1998p28" />、少なくとも[[ティベリウス]]の時代まではローマ皇帝でない人物にもインペラトルの称号が与えられていたことが記録されている<ref name="木村ら1998p28" />。[[3世紀]]になると各地の[[ローマ軍団|軍団]]兵士がインペラトルを乱立し、[[軍人皇帝]]時代と呼ばれる混乱を招いた<ref name="世界大百科事典" />。
== 歴史的展開 ==
初見としては、前209年に[[イベリア半島]]を制圧した[[大スキピオ]]をインペラトルと叫ぶ歓呼が起こったとされているが、これは事実であるか疑われている。確実に確認されるのは前189年の[[ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス]]がインペラトルの称号を告示されている例である。


== エンペラーの語源として ==
[[ポンペイウス]]がインペラトルと歓呼された事実を強調し、回数を重視するようになったという。一般には対外戦争に勝って[[凱旋式]]を行うことにより、インペラトルと歓呼された。帝政成立前の内乱期にはインペラトルは軍事指揮権と密接に関係していた。[[ユリウス・カエサル]]が[[独裁官|ディクタトル]]となりローマ軍の最高指揮権を単独で握るようになると、「インペラトル」を個人名として使った。アウグストゥスも「インペラトル」を個人名として使用したが、アウグストゥス以降の初期プリンケプスたちの場合はどちらかといえばカエサルとの個人的な血縁関係を示す「カエサル」号のほうが重要性が高いものだったと思われる。なぜなら[[ティベリウス]]、[[カリグラ]]、[[クラウディウス]]は「カエサル」と名乗ったが、「インペラトル」を名乗っていない。[[ネロ]]の時に「インペラトル」号は不完全ながら復活し、[[ウェスパシアヌス]]以降皇帝名の先頭におくようになった。インペラトルはプリンケプスの称号として定着し、皇帝を意味するにふさわしいものとなっていった。[[東ローマ帝国]]時代に入って[[ギリシア語]]が公用語となってからは、ギリシア語で同じ意味を持つ「'''アウトクラトール'''({{lang|el|αυτοκράτωρ}})」が皇帝の称号として使用されている。
インペラトルは、[[日本語]]で一般に[[皇帝]]と訳されている[[英語]]のエンペラー({{lang|en|emperor}})の語源である。たとえば、およそ[[120年]]ごろの成立とされる[[スエトニウス]]の『[[ローマ皇帝伝]]』ではローマ皇帝を指すのに「[[プリンケプス]]」「[[カエサル (称号)|カエサル]]」「インペラトル」と3通りに呼び、統一していない。[[ギリシア語]]が公用語であった[[ビザンツ帝国]]でも、ギリシア語で同じ意味を持つ「'''アウトクラトール'''({{lang|el|αυτοκράτωρ}})」を[[君主]]の称号として使用した。同じく[[帝政]]時代に皇帝を指した「アウグストゥス」の語の影響がほとんど残っていないのと比べると対照的である。しかし歴史学においてはインペラトルの称号から直接ローマ皇帝の君主としての性格を論じるよりも、[[元首政]]初期のアウグストゥスとその後継者の位置から論じるものが多く、インペラトルについても元首政期のローマ皇帝が包含していた多様な属性の一つであるという見方が一般的である。

「インペラトル」は「カエサル」とともに、西欧語の「皇帝」を意味する言葉の語源であり、同じくローマ帝国時代に皇帝を指した「アウグストゥス」の語の影響がほとんど残っていないのと比べると対照的である。

しかし歴史学においてはインペラトルの称号から直接ローマ皇帝の君主としての性格を論じるよりも、元首政初期のアウグストゥスとその後継者の位置から論じるものがおおく、インペラトルについても元首政期のローマ皇帝が包含していた多様な属性の一つであるという見方が一般的である。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[木村陵二]]・[[鶴間和幸]]|editor=[[樺山紘一]]|year=1998|chapter=帝国と支配 古代の遺産|title=岩波講座 世界歴史 第5巻 帝国と支配」|publisher=[[岩波書店]]|isbn=9784000108256|ref=木村ら1998}}
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* [[樺山紘一]]ほか編 『[[岩波講座世界歴史]]5 帝国と支配』 岩波書店、1998年。
* スエトニウス 『ローマ皇帝伝』 国原吉之助訳、岩波文庫、1986年。
* スエトニウス 『ローマ皇帝伝』 国原吉之助訳、岩波文庫、1986年。
* [[村川堅太郎]]ほか 『ギリシア・ローマの盛衰』 講談社学術文庫、1993年。
* [[村川堅太郎]]ほか 『ギリシア・ローマの盛衰』 講談社学術文庫、1993年。
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[インペリウム]]
*[[バシレウス]] - [[東ローマ帝国]]時代の[[ギリシア語]]の皇帝称号
*[[古代ローマの人名]]
*[[ツァーリ]] - [[ロシア・ツァーリ国]]時代の君主号。「[[カエサル (称号)|カエサル]]」の[[ロシア語]]訳。
*[[ローマ皇帝]]
*[[ロシア皇帝]] - [[ピョートル1世]]以降に用いられた君主号。


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2019年6月11日 (火) 16:30時点における版

インペラトルラテン語: imperator、インペラートル)は、インペリウム(命令権)を付与された公職者であることを意味するラテン語[1][2][3]古代ローマにおいて、対外戦争で成功を収めた軍司令官(凱旋将軍)の称号としても用いられた[2]

概要

アウグストゥス
彼は軍事的成功者に与えられる名誉的な称号であったインペラトルを異例にも個人名として使用した

インペラトルとは、元老院よりインペリウム(命令権)を付与された公職者であることを意味する古代ローマの言葉である[1][2][3]。元老院は、元老院の決定を執行する者として各地にインペラトル(命令権保持者)を派遣し、ローマから遠く離れた地域へもローマの支配を行き渡らせた[4]

インペリウムの適用範囲が次第に縮小されて「属州における軍事指揮権」ほどの意味となると、インペラトルも実質的にはローマ軍の軍司令官を意味する言葉となった[3]。戦争に勝利したインペラトルは、凱旋時に市民から「インペラトル」の歓呼で迎えられた[1][5][2]。インペリウム(軍事指揮権)には有効期限があるため通常はインペリウムの失効とともに「インペラトル」を名乗ることもできなくなるのだが、市民から「インペラトル」の歓呼で迎えられた凱旋将軍は、任期中に限ってインペリウム失効後にも「インペラトル」を名乗ることが許されていた[1][5]紀元前189年ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスがインペラトルの称号で呼ばれているのが確認できる最初の例である[1][6][7]。一説には紀元前209年イベリア半島を制圧した大スキピオをインペラトルと叫ぶ歓呼が起こったともされるが、これが事実であるかは疑わしいとされている[7]共和政末期にはスッラポンペイウスカエサルといった権力者たちが好んでインペラトルを名乗った[2]。ポンペイウスは自身が3度「インペラトル」と呼ばれたことを強調し[7]、カエサルは「インペラトル」を終身のものとして使用した[7][6][8]オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)も紀元前43年以降たびたびインペラトルの称号を帯び[1]紀元前29年には元老院より「インペラトル」を個人名の一部として使用することが認められた[1]

オクタウィアヌスには後に「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号も贈られ、後の世で一般に最初のローマ皇帝であると認識されている。アウグストゥスの後継者たちは当初はインペラトルとは名乗らなかったが[1]ウェスパシアヌスがインペラトルを名乗って以降にはインペラトルもプリンケプス(市民の第一人者、帝政期においてはローマ皇帝のこと)が名乗る名前の一部として定着した[2]。一方でローマ皇帝は「凱旋将軍」の意味としてもインペラトルの語を用い続け、部下の戦勝を自己の栄誉として「インペラトル何回」と数えた[6]。ただしインペラトルは特定の官職ではないため定員という考え方はなく[2]、同時に何人もの人物にインペラトルを名乗らせることが可能であった[9]。慣習的にも、インペラトルは勝利に歓喜した軍団兵士の声によって自然発生的に誕生するものと認識されていた[9]。アウグストゥスも配下の将軍の何人かにインペラトルを名乗らせており[9]、少なくともティベリウスの時代まではローマ皇帝でない人物にもインペラトルの称号が与えられていたことが記録されている[9]3世紀になると各地の軍団兵士がインペラトルを乱立し、軍人皇帝時代と呼ばれる混乱を招いた[2]

エンペラーの語源として

インペラトルは、日本語で一般に皇帝と訳されている英語のエンペラー(emperor)の語源である。たとえば、およそ120年ごろの成立とされるスエトニウスの『ローマ皇帝伝』ではローマ皇帝を指すのに「プリンケプス」「カエサル」「インペラトル」と3通りに呼び、統一していない。ギリシア語が公用語であったビザンツ帝国でも、ギリシア語で同じ意味を持つ「アウトクラトールαυτοκράτωρ)」を君主の称号として使用した。同じく帝政時代に皇帝を指した「アウグストゥス」の語の影響がほとんど残っていないのと比べると対照的である。しかし歴史学においてはインペラトルの称号から直接ローマ皇帝の君主としての性格を論じるよりも、元首政初期のアウグストゥスとその後継者の位置から論じるものが多く、インペラトルについても元首政期のローマ皇帝が包含していた多様な属性の一つであるという見方が一般的である。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h [インペラトル]『世界歴史大事典教育出版
  2. ^ a b c d e f g h [インペラトル]『世界大百科事典平凡社
  3. ^ a b c [インペラトル]『大日本百科事典』小学館
  4. ^ 吉村2003、pp.53-54。
  5. ^ a b [インペラトル]『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典TBSブリタニカ
  6. ^ a b c [インペラトル]『日本大百科全書小学館
  7. ^ a b c d 木村ら1998, p.9。
  8. ^ [インペラトル]『マイペディア』平凡社
  9. ^ a b c d 木村ら1998, p.28。

参考文献

  • 木村陵二鶴間和幸 著「帝国と支配 古代の遺産」、樺山紘一 編『岩波講座 世界歴史 第5巻 帝国と支配」』岩波書店、1998年。ISBN 9784000108256 
  • スエトニウス 『ローマ皇帝伝』 国原吉之助訳、岩波文庫、1986年。
  • 村川堅太郎ほか 『ギリシア・ローマの盛衰』 講談社学術文庫、1993年。
  • 弓削達伊藤貞夫編 『ギリシアとローマ 古典古代の比較史的考察』 河出書房新社、1988年。
  • 南川高志 『ローマ皇帝とその時代』 創文社、1995年。
  • 長谷川博隆 『古代ローマの政治と社会』 名古屋大学出版会、2001年。
  • M.ロストフツェフ 『ローマ帝国社会経済史』 坂口明訳、東洋経済新報社、2001年。
  • E.マイヤー 『ローマ人の国家と国家思想』 鈴木一州訳、岩波書店、1978年。

関連項目