「大喪儀」の版間の差分
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:遺体を棺に納める一般の納棺に当たる。お棺は内と外、二種類有り、内側のお棺に納める。 |
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;斂棺の儀 |
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:外側の銅のお棺に納める。斂棺(れんかん)が済むとお棺は完全に密封される。 |
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;陵所[[地鎮祭]]の儀 |
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:完成した[[御陵]]を祓う儀。 |
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;[[殯|殯宮]]移御の儀(ひんきゅういぎょ) |
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:天皇の棺を櫬殿から殯宮に移す儀式 |
:天皇の棺を櫬殿から殯宮に移す儀式。 |
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;櫬殿祓除の儀(しんでんばつじょ) |
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:崩御10日目に行われる。槻殿(しんでん)とは、天皇の棺が安置されている部屋のことであり、昭和天皇の時は吹上御所一階の居間が槻殿とされた。 |
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;殯宮移御の儀 |
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:宮殿・連翠南で行われる。棺を槻殿から殯宮(もがりのみや)に移す儀式。殯宮とは斂葬までの間棺を安置するために皇居内に設けられた仮の御殿のことで、一つだけ明かりが灯される。昭和天皇の時は正殿・松の間が殯宮とされた。 |
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;殯宮移御後一日祭の儀 |
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;殯宮日供の儀(ひんきゅうにっく) |
;殯宮日供の儀(ひんきゅうにっく) |
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:毎日行われる。 |
:毎日行われる。 |
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;殯宮拝礼の儀 |
;殯宮拝礼の儀 |
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:殯宮で皇族が礼拝するのを殯宮礼拝の儀といい、日本に駐在する外交使節団が礼拝する外交団殯宮礼拝なども行われる。 |
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;殯宮二十日の儀 |
;殯宮二十日の儀 |
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;[[追号]]奉告の儀 |
;[[追号]]奉告の儀 |
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:崩御した天皇の追号を奉告する儀式。 |
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;追号報告の儀 |
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:殯宮で追号を発表する儀式。 |
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;殯宮三十日の儀 |
;殯宮三十日の儀 |
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;殯宮四十日の儀 |
;殯宮四十日の儀 |
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;陵所祓除の儀 |
;陵所祓除の儀 |
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:完成した御陵を祓う儀式。 |
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;霊代奉安の儀 |
;霊代奉安の儀 |
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:天皇の霊代を宮殿の表御座所「芳菊の間」に奉安する儀式。 |
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;[[斂葬の儀|斂葬]]前殯宮拝礼の儀(れんそう) |
;[[斂葬の儀|斂葬]]前殯宮拝礼の儀(れんそう) |
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:天皇の御霊代を宮殿の表御座所に奉安する儀。 |
:天皇の御霊代を宮殿の表御座所に奉安する儀。 |
2019年2月13日 (水) 15:23時点における版
大喪儀(たいそうぎ)は、天皇・皇后・太皇太后・皇太后の葬儀のこと。1926年皇室喪儀令で詳細が記されており、現在も慣例として行われている。
現在の日本国憲法下では、現皇室典範の規定により天皇の時は、国の儀式として「大喪の礼」が行われる。
構成
- 拝訣の儀
- 遺された皇族が最期のお別れをする
- 御舟入の儀
- 遺体を棺に納める一般の納棺に当たる。お棺は内と外、二種類有り、内側のお棺に納める。
- 斂棺の儀
- 外側の銅のお棺に納める。斂棺(れんかん)が済むとお棺は完全に密封される。
- 陵所地鎮祭の儀
- 完成した御陵を祓う儀。
- 殯宮移御の儀(ひんきゅういぎょ)
- 天皇の棺を櫬殿から殯宮に移す儀式。
- 櫬殿祓除の儀(しんでんばつじょ)
- 槻殿十日祭の儀
- 崩御10日目に行われる。槻殿(しんでん)とは、天皇の棺が安置されている部屋のことであり、昭和天皇の時は吹上御所一階の居間が槻殿とされた。
- 殯宮移御の儀
- 宮殿・連翠南で行われる。棺を槻殿から殯宮(もがりのみや)に移す儀式。殯宮とは斂葬までの間棺を安置するために皇居内に設けられた仮の御殿のことで、一つだけ明かりが灯される。昭和天皇の時は正殿・松の間が殯宮とされた。
- 殯宮移御後一日祭の儀
- 殯宮日供の儀(ひんきゅうにっく)
- 毎日行われる。
- 殯宮拝礼の儀
- 殯宮で皇族が礼拝するのを殯宮礼拝の儀といい、日本に駐在する外交使節団が礼拝する外交団殯宮礼拝なども行われる。
- 殯宮二十日の儀
- 追号奉告の儀
- 崩御した天皇の追号を奉告する儀式。
- 追号報告の儀
- 殯宮で追号を発表する儀式。
- 殯宮三十日の儀
- 殯宮四十日の儀
- 陵所祓除の儀
- 完成した御陵を祓う儀式。
- 霊代奉安の儀
- 天皇の霊代を宮殿の表御座所「芳菊の間」に奉安する儀式。
- 斂葬前殯宮拝礼の儀(れんそう)
- 天皇の御霊代を宮殿の表御座所に奉安する儀。
- 斂葬当日殯宮祭の儀
- 轜車発引の儀(じしゃはついん)
- 葬場殿の儀
- 大喪の礼御式
- 国事行為。
- 陵所の儀
- 権殿日供の儀
- 山陵日供の儀
- 斂葬後一日権殿祭の儀
- 権殿五十日祭の儀
- 斂葬後一日山陵祭の儀
- 山陵五十日祭の儀
- 倚廬殿の儀(いろでん)
- 喪に服す。
- 権殿百日祭の儀
- 山陵百日祭の儀
- 山陵起工奉告の儀
- 山陵竣工奉告の儀
- 権殿一周年祭の儀
- 山陵一周年祭の儀
- 御禊の儀(みそぎ)
- 大祓の儀
変遷
元々江戸時代までの皇室の葬儀は仏式で寺院において行われていたが、明治時代以降神式が行われるようになった。
飛鳥時代までは、殯宮を設置して1年間遺体を安置する慣わしであったが、持統天皇の時に火葬が導入されて以後は簡略化されて30日間が通例とされた。
奈良時代に、聖武天皇の時に仏教に則った方式に変更され、以後村上天皇までは天皇の葬儀が国家的行事として行われてきたが、次の在位中の崩御となった後一条天皇の葬儀以後、崩御の事実を隠して譲位の儀式を行った後に天皇家の私的行事である太上天皇の葬儀の形式で内々に行われるようになり、穢との関連から外戚や近臣などの例外を除いては公卿が参列することもなくなった[1]。
平安時代以後も、鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代に至るまで、仏教に則った方式が行われ、生前に造営した寺院などで行う事になり、北朝の後光厳天皇以後は京都泉涌寺で開催されることとなった。前述の事情により、天皇の葬儀に関する作業の多くはほとんど僧侶の手で行われる一種の秘儀となったが、戦乱による泉涌寺の荒廃によって僧侶が揃えられなかった後土御門天皇の時は、実際に手伝った公卿の東坊城和長は『明応記』と称される詳細な葬儀記録(凶事記)を残して、後世に天皇の葬儀の様子を伝えている。なお、同天皇の葬儀は応仁の乱後の財政難から作業の中断を余儀なくされ、実際の葬儀が開かれたのは崩御から43日後で後世に「玉体腐損、而蟲湧出」(『続本朝通鑑』)と伝えられた(ただし、真相は不明である)[2]。
江戸時代に入ると、江戸幕府の影響の下で再び国家的行事の性格を有するようになり、現職の摂関以外のほとんどの公卿が参列するものとなった[1]。また、後光明天皇以後は様式は火葬のまま、実際には土葬の制が復活した。
江戸時代末期から明治時代になり、孝明天皇の時に神道に則った形式へ変更され、明治維新と東京奠都の影響により、その三年祭は東京に移された宮中で神道に則って開催された。以後、英照皇太后と明治天皇と神式の形式が取られていった。
大正時代には、1909年に皇室服喪令、続いて1926年に皇室喪儀令が制定され、天皇及び三后の逝去を「崩御」・葬儀を「大喪」と呼称する事が定められた。戦後の皇室典範改正により、皇室服喪令・皇室喪儀令は廃されたものの、慣例としてこれに準じた儀礼が採用された。
戦後、日本国憲法施行後は、1989年の昭和天皇の場合には、政教分離原則に反しない形で国家の儀式として「大喪の礼」、皇室の儀式として「大喪儀」と、名目上は分離され開催されており、「大喪儀」は神道に則った形式で執り行われた。
脚注
- ^ a b 久水俊和「天皇家の葬送儀礼と室町殿」(初出:『國學院大學大学院紀要(文学研究科)』34号(2002年)/改題所収:「天皇家の葬送儀礼からみる室町殿」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)
- ^ 久水俊和「東坊城和長の『明徳凶事記』」(初出:『文化継承学論集』5号(2009年)/改題所収:「〈凶事記〉の作成とその意義」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)