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'''陳 柳'''(ちん りゅう、{{Vie|v=Trần Liễu|hn=陳柳}}、[[建嘉]]元年([[1211年]]) - [[元豊 (陳朝)|元豊]]元年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]([[1251年]][[4月23日]]))は、[[陳朝]][[大越]]の皇族。


== 生涯 ==
'''陳柳'''([[ベトナム語]]:'''Trần Liễu'''(チャン・リェウ)、 [[1211年]] - [[1251年]])は、[[大越]][[陳朝]]の王族・武将。陳朝の初代皇帝[[陳太宗|太宗]]の実兄である。陳朝の初代[[太上皇]]であった[[陳承]](太祖)の長男。子に陳国峻([[陳興道]])がいる。
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== 経歴 ==
初め、[[李 (ベトナム)|李朝]]最後の皇帝[[李昭皇]](弟・煚(後の太宗)の妻)の実姉[[順天皇后|李氏罃]](順天公主)を妻として弟を補佐していたが、叔父で陳朝の事実上の最高指導者であった[[陳守度]]と政治の実権を争う。[[1228年]]に[[太尉]]に任られ、[[1234年]]に実父・陳承(太祖)の、「顕皇」の称号が与えられ<ref>『大越史記全書』天応政平3年(1234年)条。</ref>、その宮殿であり後に歴代太上皇が住んでいた聖慈宮に住んでいた<ref>『大越史記全書』天応政平5年(1236年)条。</ref>ことから、父の没後に陳朝の太上皇と同格の地位であった、もしくは実際に太上皇の地位に即位していたとする説もある<ref>桃木至朗中世大越国家の成立と変容』(大阪大学出版会, 2011年2月)P290・292</ref>。


ところが、[[1236年]]に李朝旧妃と通じた疑いをかけられて懐王に落とされ、続いて[[1237年]]に陳守度が、太宗に子が出来ないを理由に太宗と李昭皇を離縁させ、代わりに李氏罃を強引に召しして陳柳と離縁させて、新しい皇后とする
ところが、天応政平5年([[1236年]]に李朝旧妃と通じた疑いをかけられて懐王に落とされ、続いて翌天応政平6年([[1237年]]に陳守度が、太宗に子が出来ないことを理由に太宗と皇后の[[李昭皇|李仏金]](李氏罃の妹)を離縁させ、代わりに李氏罃を強引に召しして陳柳と離縁させて、新しい皇后とした


これに激怒した陳柳は謀叛の兵を挙げるも、これが陳柳の失脚を図る陳守度の思う壺となり、反乱軍はたちまちのうちに打ち破られてしまう。
これに激怒した陳柳は兵を挙げるも、陳柳の失脚を図る陳守度の思う壺となり、陳柳の軍はたちまちのうちに打ち破られてしまう。


太宗の執り成しで陳柳の罪は不問とされて改めて安生王に封じられたが、政治的に失脚した陳柳は陳守度を恨みながら病没したという<ref>陳興道死去の記事を記した『大越史記全書』興隆9年(1301年)条によれば、陳柳は死去の際に興道)に対して「汝不能為我得天下、我死地下不瞑目」と遺言したという。</ref>。
太宗の執り成しで陳柳の罪は不問とされて安生王にれたが、政治生命を絶たれた陳柳は陳守度を恨みながら病没したという<ref>[[陳興道|陳国峻]]死去の記事を記した『大越史記全書』興隆9年(1301年)条によれば、陳柳は死去の際に子国峻に対して「汝不能為我得天下、我死地下不瞑目」と遺言したという。</ref>。


== 脚注 ==
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2018年11月9日 (金) 12:47時点における版

陳柳
各種表記
漢字チュノム 陳柳
北部発音: チャン・リェウ
日本語読み: ちん りゅう
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陳 柳(ちん りゅう、ベトナム語Trần Liễu / 陳柳建嘉元年(1211年) - 元豊元年4月1日1251年4月23日))は、陳朝大越の皇族。

生涯

李朝の権臣であった陳承中国語版の長男。皇帝恵宗の長女の李氏中国語版を妻とした。

初め、弟である陳朝初代皇帝の太宗を補佐していたが、陳朝の事実上の最高指導者であった従叔の陳守度と政治の実権を争う。建中4年(1228年)に太尉に任じられ、天応政平3年(1234年)に太上皇であった陳承が没すると、「顕皇」の称号が与えられ[1]、その宮殿であり後に歴代太上皇が住んでいた聖慈宮に住んでいた[2]ことから、父の没後は太上皇と同格の地位であった、もしくは実際に太上皇の地位を与えられていたとする説もある[3]

ところが、天応政平5年(1236年)に李朝旧妃と通じた疑いをかけられて懐王に落とされ、続いて翌天応政平6年(1237年)に陳守度が、太宗に子が出来ないことを理由に太宗と皇后の李仏金(李氏罃の妹)を離縁させ、代わりに李氏罃を強引に召し出して陳柳と離縁させて、新しい皇后とした。

これに激怒した陳柳は兵を挙げるも、陳柳の失脚を図る陳守度の思う壺となり、陳柳の軍はたちまちのうちに打ち破られてしまう。

太宗の執り成しで陳柳の罪は不問とされて安生王に改封されたが、政治生命を絶たれた陳柳は陳守度を恨みながら病没したという[4]

脚注

  1. ^ 大越史記全書』天応政平3年(1234年)条。
  2. ^ 『大越史記全書』天応政平5年(1236年)条。
  3. ^ 桃木至朗『中世大越国家の成立と変容』大阪大学出版会、2011年2月、290・292頁。 
  4. ^ 陳国峻死去の記事を記した『大越史記全書』興隆9年(1301年)条によれば、陳柳は死去の際に子の陳国峻に対して「汝不能為我得天下、我死地下不瞑目」と遺言したという。