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'''高木 正陳'''(たかぎ まさのぶ、[[寛文]]5年([[1665年]]) - [[元文]]6年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]([[1741年]][[3月21日]]))は、[[河内国|河内]][[丹南藩]]の第6代藩主。
'''高木 正陳'''(たかぎ まさのぶ、[[寛文]]5年([[1665年]]) - [[元文]]6年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]([[1741年]][[3月21日]]))は、[[河内国|河内]][[丹南藩]]の第6代藩主。


第4代藩主・[[高木正盛]]の次男。母は[[板倉重矩]]の娘。正室は[[本多正永]]の娘。子に[[高木正府]](長男)、[[板倉勝里]](次男)、娘([[谷衛衝]]正室)、娘([[遠山友由]]正室)、娘([[永井直堯]]正室)、娘([[服部保弘]]正室)。官位は従五位下、主水正。
第4代藩主・[[高木正盛]]の次男。母は[[板倉重矩]]の娘。正室は[[本多正永]]の娘。子に[[高木正府]](長男)、[[板倉勝里]](次男)、娘([[谷衛衝]]正室)、娘([[遠山友由]]正室)、娘([[永井直堯]]正室)、娘([[服部保弘]]正室)。通称は大学。官位は従五位下、主水正。


[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]]、先代藩主で兄の[[高木正豊|正豊]]が嗣子無くして若死にしたため、その跡を継いだ。[[大番頭]]、[[奏者番]]となる。
[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])7月11日、先代藩主で兄の[[高木正豊|正豊]]が嗣子無くして若死にしたため、その跡を継いだ。同年7月22日、将軍[[徳川綱吉]]にお目見えする。元禄2年([[1689年]])5月14日、[[大番頭]]に就任する。同年12月27日、従五位下主水正に叙任する。元禄12年2月2日、河内国丹南郡内の領地の一部を下野国足利郡内に移される。正徳元年([[1711年]])1月11日、[[奏者番]]に就任す。元文6年(1741年)正月に病に倒れ、2月5日に死去した。[[享年]]77。跡を養嗣子の[[高木正恒|正恒]]が継いだ。墓所は[[東京都]][[杉並区]]永福の栖岸院


茶人であり、[[一尾伊織]]の門人の一人であった。
茶人であり、[[一尾伊織]]の門人の一人であった。

元文6年(1741年)正月に病に倒れ、2月5日に死去した。[[享年]]77。跡を養嗣子の[[高木正恒|正恒]]が継いだ。墓所は[[東京都]][[杉並区]]永福の栖岸院。


{{丹南藩主|6代|1681年 - 1741年}}
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2016年11月26日 (土) 15:26時点における版

高木 正陳(たかぎ まさのぶ、寛文5年(1665年) - 元文6年2月5日1741年3月21日))は、河内丹南藩の第6代藩主。

第4代藩主・高木正盛の次男。母は板倉重矩の娘。正室は本多正永の娘。子に高木正府(長男)、板倉勝里(次男)、娘(谷衛衝正室)、娘(遠山友由正室)、娘(永井直堯正室)、娘(服部保弘正室)。通称は大学。官位は従五位下、主水正。

天和元年(1681年)7月11日、先代藩主で兄の正豊が嗣子無くして若死にしたため、その跡を継いだ。同年7月22日、将軍徳川綱吉にお目見えする。元禄2年(1689年)5月14日、大番頭に就任する。同年12月27日、従五位下主水正に叙任する。元禄12年2月2日、河内国丹南郡内の領地の一部を下野国足利郡内に移される。正徳元年(1711年)1月11日、奏者番に就任する。元文6年(1741年)正月に病に倒れ、2月5日に死去した。享年77。跡を養嗣子の正恒が継いだ。墓所は東京都杉並区永福の栖岸院。

茶人であり、一尾伊織の門人の一人であった。