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'''シメオン・ドニ・ポアソン'''(''Siméon Denis Poisson''、[[1781年]][[6月21日]] - [[1840年]][[4月25日]])は、[[ポアソン分布]]・[[ポアソン方程式]]などで知られる[[フランス]]の[[数学者]]、[[地理学者]]、[[物理学者]]。
'''シメオン・ドニ・ポアソン'''(''Siméon Denis Poisson''、[[1781年]][[6月21日]] - [[1840年]][[4月25日]])は、[[ポアソン分布]]・[[ポアソン方程式]]などで知られる[[フランス]]の[[数学者]]、[[地理学者]]、[[物理学者]]。


== 生涯 ==
[[ピティヴィエ]]で生まれた。はじめは父の意向で[[医学]]を志したが、不器用であることや医学に関心を持たなかったことから[[数学]]へ転向した。[[1798年]]に[[理工科学校|エコール・ポリテクニーク]]に入学、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]、[[ピエール=シモン・ラプラス|ラプラス]]らに代数学などを学ぶ。[[1802年]]に[[ジョゼフ・フーリエ|フーリエ]]の後任としてエコール・ポリテクニーク教授に就任し、[[1806年]]まで在籍した。
[[ピティヴィエ]]で生まれた。はじめは父の意向で[[医学]]を志したが、不器用であることや医学に関心を持たなかったことから[[数学]]へ転向した。[[1798年]]に[[理工科学校|エコール・ポリテクニーク]]に入学、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]、[[ピエール=シモン・ラプラス|ラプラス]]らに代数学などを学ぶ。[[1802年]]に[[ジョゼフ・フーリエ|フーリエ]]の後任としてエコール・ポリテクニーク教授に就任し、[[1806年]]まで在籍した。


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[[Category:フランスの物理学者]]
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[[Category:19世紀の自然科学者]]
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[[Category:18世紀の数学者|810621]]
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2015年10月13日 (火) 09:30時点における版

シメオン・ドニ・ポアソン
生誕 1781年6月21日
フランス王国 ピティヴィエ
死没 (1840-04-25) 1840年4月25日(58歳没)
フランスの旗 フランス王国 ソー
研究分野 数学地理学物理学
研究機関 エコール・ポリテクニーク
サン・シール陸軍士官学校
出身校 エコール・ポリテクニーク
博士課程
指導教員
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ
ピエール=シモン・ラプラス
博士課程
指導学生
ペーター・グスタフ・ディリクレ
ジョゼフ・リウヴィル
他の指導学生 ニコラ・レオナール・サディ・カルノー
主な業績 ポアソン方程式
ポアソン分布
ポアソン括弧
アラゴスポット
ポアソン比
主な受賞歴 コプリ・メダル(1832年)
署名
プロジェクト:人物伝
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シメオン・ドニ・ポアソンSiméon Denis Poisson1781年6月21日 - 1840年4月25日)は、ポアソン分布ポアソン方程式などで知られるフランス数学者地理学者物理学者

生涯

ピティヴィエで生まれた。はじめは父の意向で医学を志したが、不器用であることや医学に関心を持たなかったことから数学へ転向した。1798年エコール・ポリテクニークに入学、ラグランジュラプラスらに代数学などを学ぶ。1802年フーリエの後任としてエコール・ポリテクニーク教授に就任し、1806年まで在籍した。

1808年1809年にポアソンは、主要業績とされる幾つかの論文をフランス科学アカデミー会報に発表した。1808年の Sur les inégalités des moyens mouvement des planètes では惑星の運動を取り扱い、ラプラスとラグランジェの提出した問題への解答を試みた。続く1809年には Sur le mouvement de rotation de la terre および Sur la variation des constantes arbitraires dans les questions de méchanique において、ポアソンはこれを発展させた。また1811年にはエコール・ポリテクニークでの講義録を2巻の書籍として出版した。 1818年にロンドン王立協会のフェローに選出され[1]、1832年にはコプリ・メダルを贈られている。

脚注

  1. ^ "Poisson; Simeon Denis (1781 - 1840)". Record (英語). The Royal Society. 2011年12月11日閲覧

関連項目

外部リンク