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'''放蕩'''(ほうとう)とは、自分の思うままに振る舞うこと<ref>広辞苑第五版p.2438【放蕩】</ref><ref>大辞泉</ref>。やるべきことをやらず、飲酒や遊びにうつつをぬかすこと。
'''放蕩'''(ほうとう)とは、自分の思うままに振る舞うこと<ref>広辞苑第五版p.2438【放蕩】</ref><ref>大辞泉</ref>。やるべきことをやらず、[[飲酒]][[遊び]]にうつつをぬかすこと。


== 概説 ==
== 概説 ==
放蕩とは自分の思うままに振る舞うことであり、やるべきことをやらず自分のやりたい放題にして、家の財産などを蕩尽すること(つかいつくしてゆくこと)である。特に、[[酒]]([[飲酒]])にふけったり、女遊びにふけることを指すことが多い<ref>広辞苑第五版p.2438【放蕩】</ref><ref>大辞泉</ref>。
放蕩とは自分の思うままに振る舞うことであり、やるべきことをやらず自分のやりたい放題にして、家の[[財産]]などを蕩尽すること(つかいつくしてゆくこと)である。特に、[[酒]]にふけったり、女遊びにふけることを指すことが多い<ref>広辞苑第五版p.2438【放蕩】</ref><ref>大辞泉</ref>。


放蕩を繰り返す人は「放蕩者 ほうとうもの」「[[放蕩息子]]」「放蕩児」などと呼ばれている。
放蕩を繰り返す人は「放蕩者」「[[放蕩息子]]」「放蕩児」などと呼ばれている。


上記の呼称で呼ばれた人、呼ばれている人は数限りなくいるのではあるが、過去の人物の具体例を幾人か挙げると、たとえば[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック]]や[[薩摩治郎八]]などがそう呼ばれることがある<ref>式場 隆三郎 「放蕩の貴族ロートレック」芸術新潮 2(11), 126-134, 1951-11</ref> <ref>鹿島 茂「蜃気楼を追いつづけた男--薩摩治郎八が失くしたものと残したもの(パリの放蕩息子バロン・サツマ物語)」芸術新潮 49(12), 6-25, 1998-12</ref>。
上記の呼称で呼ばれた人、呼ばれている人は数限りなくいるのではあるが、過去の人物の具体例を幾人か挙げると、たとえば[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック]]や[[薩摩治郎八]]などがそう呼ばれることがある<ref>式場 隆三郎 「放蕩の貴族ロートレック」芸術新潮 2(11), 126-134, 1951-11</ref> <ref>鹿島 茂「蜃気楼を追いつづけた男--薩摩治郎八が失くしたものと残したもの(パリの放蕩息子バロン・サツマ物語)」芸術新潮 49(12), 6-25, 1998-12</ref>。


== 放蕩を題材とした作品 ==
== 放蕩を題材とした作品 ==
[[新約聖書]]の「[[ルカによる福音書]]」には「[[放蕩息子のたとえ話]]」(放蕩息子の帰還)がおさめられており、西洋の人々がprodigal(放蕩)と聞くと真っ先に思い出すのがこの話である。この話は多くの作家にインスピレーションを与え続けている。例えば『[[ロンドンの放蕩者]]』(16世紀末~17世紀初頭の作品)がそれであり、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]](1606 - 1669)も「放蕩息子の帰還」を題材にした作品を描き、[[アンドレ・ジッド]](1869 - 1951)も同名の作品を書いた。また、[[ジェフリー・アーチャー]]の『[[ロスノフスキ家の娘]]』(1982)もこの喩え話から着想を得ているなど、枚挙にいとまがない。
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== 関連項目 ==
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== 関連文献 ==
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2015年1月18日 (日) 08:23時点における版

放蕩(ほうとう)とは、自分の思うままに振る舞うこと[1][2]。やるべきことをやらず、飲酒遊びにうつつをぬかすこと。

概説

放蕩とは自分の思うままに振る舞うことであり、やるべきことをやらず自分のやりたい放題にして、家の財産などを蕩尽すること(つかいつくしてゆくこと)である。特に、にふけったり、女遊びにふけることを指すことが多い[3][4]

放蕩を繰り返す人は「放蕩者」「放蕩息子」「放蕩児」などと呼ばれている。

上記の呼称で呼ばれた人、呼ばれている人は数限りなくいるのではあるが、過去の人物の具体例を幾人か挙げると、たとえばアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック薩摩治郎八などがそう呼ばれることがある[5] [6]

放蕩を題材とした作品

新約聖書の「ルカによる福音書」には「放蕩息子のたとえ話」(放蕩息子の帰還)がおさめられており、西洋の人々がprodigal(放蕩)と聞くと真っ先に思い出すのがこの話である。この話は多くの作家にインスピレーションを与え続けている。例えば『ロンドンの放蕩者』(16世紀末~17世紀初頭の作品)がそれであり、レンブラント(1606 - 1669)も「放蕩息子の帰還」を題材にした作品を描き、アンドレ・ジッド(1869 - 1951)も同名の作品を書いた。また、ジェフリー・アーチャーの『ロスノフスキ家の娘』(1982)もこの喩え話から着想を得ているなど、枚挙にいとまがない。

関連項目

出典

  1. ^ 広辞苑第五版p.2438【放蕩】
  2. ^ 大辞泉
  3. ^ 広辞苑第五版p.2438【放蕩】
  4. ^ 大辞泉
  5. ^ 式場 隆三郎 「放蕩の貴族ロートレック」芸術新潮 2(11), 126-134, 1951-11
  6. ^ 鹿島 茂「蜃気楼を追いつづけた男--薩摩治郎八が失くしたものと残したもの(パリの放蕩息子バロン・サツマ物語)」芸術新潮 49(12), 6-25, 1998-12

関連文献

  • 玉崎紀子「女放蕩者のなりゆき」『中京大学教養論叢』第41巻第1号、中京大学、2000年10月10日、831-851頁、NAID 110004645184