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2014年9月10日 (水) 15:54時点における版
北条 貞宗(ほうじょう さだむね)
北条 貞宗(ほうじょう さだむね、生年未詳 - 建武元年(1334年、没月日については後述参照)) は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。北条氏大仏流の一族。大仏 貞宗(おさらぎ さだむね)とも。
鎌倉幕府の連署を務めた北条維貞の子(三男)として生まれた。次兄の家時が生まれた応長2年/正和元年(1312年)[1]以後のことであろう。父が初めに名乗っていたのと同じ貞宗を名乗る。
後醍醐天皇らの討幕運動(元弘の乱)が起こると、大仏家当主であった家時や弟の高直とともに幕府軍を率いて河内金剛山千早城に立て籠もっていた楠木正成を攻めていたが、足利高氏(のちの尊氏)の離反や六波羅探題の滅亡もあって軍は四散し、家時は鎌倉へ、貞宗と高直は5月10日に残った軍勢を率いて奈良に逃れた[2]。しかし、5月22日に新田義貞の鎌倉攻めにより高時や家時らが自害した(東勝寺合戦)ことを知ると、抗戦を諦めて6月5日に剃髪した上で高氏に降伏し、京都に幽閉された[2]。
高氏自身は北条家と縁戚関係にあった[3]ことから高直の助命を嘆願していたが、建武元年(1334年)3月9日に北条家の残党らによる鎌倉侵攻事件などがあったことから北条一族の徹底的な殲滅が強められることになり、9月9日に弟の高直や阿曾治時、長崎高貞(長崎氏)らと共に京都阿弥陀峰で斬首に処された[2]。
処刑の日の9月9日は『太平記』より参考にしたものであり、他の史料では3月21日(『梅松論』・『蓮花寺過去帳』)、4月(『保暦間記』)、5月(『系図』)など時期が一致しないものが多い[2]。