「堀江芳介」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
2行目: 2行目:


==経歴==
==経歴==
[[山口県]]出身。[[戊辰戦争]]に従軍。[[1872年]][[1月16日]]([[明治4年]][[12月7日 (旧暦)|12月7日]])、陸軍[[中尉]]任官。{{和暦|1875}}6月、[[陸軍教導団]]次長に就任。{{和暦|1877}}3月、別働第2[[旅団]][[参謀長]]となり[[西南戦争]]に出征。{{和暦|1878}}11月、[[歩兵]][[大佐]]に進み、同年12月、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]管東局長に就任した。{{和暦|1880}}10月、[[近衛 (日本軍)|近衛局]]参謀長を兼務。
[[山口県]]出身。[[戊辰戦争]]に従軍。[[1872年]][[1月16日]]([[明治4年]][[12月7日 (旧暦)|12月7日]])、陸軍[[中尉]]任官。[[1875年]](明治8年)6月、[[陸軍教導団]]次長に就任。[[1877年]](明治10年)3月、別働第2[[旅団]][[参謀長]]となり[[西南戦争]]に出征。[[1878年]](明治11年)11月、[[歩兵]][[大佐]]に進み、同年12月、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]管東局長に就任した。[[1880年]](明治13年)10月、[[近衛 (日本軍)|近衛局]]参謀長を兼務。


{{和暦|1883}}1月、[[陸軍戸山学校]]次長となり、同年2月、陸軍[[少将]]に昇進し同校校長に就任した。{{和暦|1885}}5月、[[近衛歩兵第1旅団]]長に転じた。[[月曜会事件]]により、{{和暦|1886}}7月、歩兵第6[[旅団]]長に転出し、同年8月、休職(欧州出張)となり、さらに{{和暦|1888}}12月、[[予備役]]に編入された。
[[1883年]](明治16年)1月、[[陸軍戸山学校]]次長となり、同年2月、陸軍[[少将]]に昇進し同校校長に就任した。[[1885年]](明治18年)5月、[[近衛歩兵第1旅団]]長に転じた。[[月曜会事件]]により、[[1886年]](明治19年)7月、歩兵第6[[旅団]]長に転出し、同年8月、休職(欧州出張)となり、さらに[[1888年]](明治21年)12月、[[予備役]]に編入された。


{{和暦|1888}}11月、元老院議官に就任。[[1890年]]7月の[[第1回衆議院議員総選挙]]に山口県第4区から出馬し当選。衆議院議員を一期務めた。さらに、[[阿月村]](現在[[柳井市]]阿月)[[村長]]に就任。
[[1888年]](明治21年)11月、元老院議官に就任。[[1890年]]7月の[[第1回衆議院議員総選挙]]に山口県第4区から出馬し当選。衆議院議員を一期務めた。さらに、[[阿月村]](現在[[柳井市]]阿月)[[村長]]に就任。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2012年9月19日 (水) 09:23時点における版

堀江 芳介(ほりえ よしすけ / ほうすけ、1845年4月9日弘化2年3月3日) - 1902年明治35年)3月27日)は、日本の陸軍軍人政治家。最終階級は陸軍少将錦鶏間祗候元老院議官衆議院議員

経歴

山口県出身。戊辰戦争に従軍。1872年1月16日明治4年12月7日)、陸軍中尉任官。1875年(明治8年)6月、陸軍教導団次長に就任。1877年(明治10年)3月、別働第2旅団参謀長となり西南戦争に出征。1878年(明治11年)11月、歩兵大佐に進み、同年12月、参謀本部管東局長に就任した。1880年(明治13年)10月、近衛局参謀長を兼務。

1883年(明治16年)1月、陸軍戸山学校次長となり、同年2月、陸軍少将に昇進し同校校長に就任した。1885年(明治18年)5月、近衛歩兵第1旅団長に転じた。月曜会事件により、1886年(明治19年)7月、歩兵第6旅団長に転出し、同年8月、休職(欧州出張)となり、さらに1888年(明治21年)12月、予備役に編入された。

1888年(明治21年)11月、元老院議官に就任。1890年7月の第1回衆議院議員総選挙に山口県第4区から出馬し当選。衆議院議員を一期務めた。さらに、阿月村(現在柳井市阿月)村長に就任。

参考文献

  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 衆議院・参院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。