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'''大潮清治郎'''(おおしお せいじろう、[[1900年]][[8月11日]] - [[1979年]][[3月29日]])は、[[福岡県]][[三瀦郡]](現在の[[大川市]])出身で[[陸奥部屋]]出身の[[昭和]]初期に活躍した元[[大相撲]][[力士]]。本名は、石橋清治郎(いしばし せいじろう)。現役時代の体格は[[身長]]184cm、[[体重]]116kg。得意手は右四つ、寄り。最高位は[[関脇]]。[[二枚鑑札]]で[[年寄]]・[[陸奥 (相撲)|陸奥]]を襲名。 |
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2010年1月7日 (木) 04:23時点における版
大潮清治郎(おおしお せいじろう、1900年8月11日 - 1979年3月29日)は、福岡県三瀦郡(現在の大川市)出身で陸奥部屋出身の昭和初期に活躍した元大相撲力士。本名は、石橋清治郎(いしばし せいじろう)。現役時代の体格は身長184cm、体重116kg。得意手は右四つ、寄り。最高位は関脇。二枚鑑札で年寄・陸奥を襲名。
来歴
陸奥部屋に入門、1919年1月場所に初土俵をふむ。入門も遅かったこともあって、昇進もゆっくりで、新十両が1928年3月、新入幕は1932年1月場所で、すでに30歳を超えていた。その新入幕の場所に春秋園事件が起こり、多くの力士が脱退したが、彼は残留し、その結果いきなり東前頭2枚目と幕内上位に進出することになった(事件前の番付は東前頭12枚目だった)。そこでもよく健闘し、5月には小結に昇進した。その後、関脇に達し、右四つから寄る正攻法の相撲で長く上位で活躍した。典型的な大器晩成で息の長い活躍を見せ、1940年1月場所6日目、男女ノ川を降して金星を挙げた時の年齢は39歳5ヶ月で、これは現在も金星獲得最年長記録である。1941年5月場所限りで現役を退いたが、その時は40歳を過ぎていた。人柄良く風格を湛えた土俵態度で力士からの人望も集めた。
現役中の1937年から二枚鑑札で年寄・陸奥を襲名し、陸奥部屋を率いて、若潮を幕内に育てた。現役最後の場所は若潮新入幕の場所でもあり、師弟そろっての幕内土俵入りという偉業をなしとげた。引退後は1960年に部屋を閉じて、同系統で対戦のなかった錦島部屋に移籍、錦島部屋の消滅後は時津風部屋にうつり、停年退職を迎えた。