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2005年4月22日 (金) 13:17時点における版
永嘉の乱(えいかのらん)とは、中国西晋末に起こった異民族による叛乱のことである。懐帝の年号である永嘉(307年 - 312年)をとって、こう呼ばれている。
恵帝の治世に起こった八王の乱(300年)以後、古来「中原」と呼ばれてきた華北地域では、混乱状態に陥り、多くの「流氓」と呼ばれる避難民が各地を流浪するようになり、早くは漢代以来、中原に侵入し、漢民族と雑居するようになっていた塞外民族も、活躍の機会を窺っていた。
山西省を中心に移住していた匈奴の酋長である劉淵は、八王の乱の時には成都王司馬穎の旗下にあったが、304年に晋朝からの独立を宣言し、左国城(山西省離石県)に拠り、大単于の位に就き、また、漢より賜った劉姓にちなんで漢王と号した(後の前趙)。その後、山西省南部に勢力を伸張し、羯族の石勒や、漢族の流氓の長である王弥を支配下に吸収し、河南省や山東省をも支配下におさめていった。
八王の乱ののち、晋朝は東海王司馬越によって辛うじて政権を支えている状況であったが、懐帝との関係に齟齬を来たした東海王が憤死すると、一気に求心力を失ってしまった。311年には、石勒軍によって晋軍が大敗し、将士10余万人が虐殺され或いは捕虜となってしまったと伝えられている。劉淵の子で後継者の劉聡は、洛陽に大軍を差し向けて陥落させ、懐帝を漢の都の平陽(山西省臨汾県)に連行した。
懐帝の死後、長安で愍帝を擁立したが、これは実質的には、西晋朝の滅亡であった。華北では、これ以降、その端緒は先の劉淵による「漢」の建国ではあったが、本格的に五胡十六国時代が始まることとなる。その画期となった事件が、永嘉の乱である。