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'''伊谷 純一郎''' ('''いたに じゅんいちろう'''、[[1926年]][[5月9日]] - [[2001年]][[8月19日]])は、日本の[[生態学]]者、[[人類学]]者、[[霊長類学]]者。[[京都大学]]名誉教授。[[今西錦司]]の跡を継ぎ、日本の[[霊長類]]研究を世界最高水準のものとした。[[鳥取県]][[鳥取市]]生まれ。
'''伊谷 純一郎''' ('''いたに じゅんいちろう'''、[[1926年]][[5月9日]] - [[2001年]][[8月19日]])は、日本の[[生態学]]者、[[人類学]]者、[[霊長類学]]者。[[京都大学]][[名誉教授]]。[[理学博士]](京都大学、1962年)。[[今西錦司]]の跡を継ぎ、日本の[[霊長類]]研究を世界最高水準のものとした。[[鳥取県]][[鳥取市]]生まれ。


当初は大分県[[高崎山]]のニホンザルの生態研究を行い、著作『高崎山のサル』(1954年)で[[毎日出版文化賞]]を受賞した。その後、1950年代末からアフリカにおいてチンパンジーやゴリラの生態を追い続け、これら霊長類の世界に大きな社会構造が存在することを世界に先駆けて解明した。その過程にて、世界ではじめて野生のサルの餌づけに成功したことでも知られる。
当初は大分県[[高崎山]]のニホンザルの生態研究を行い、著作『高崎山のサル』(1954年)で[[毎日出版文化賞]]を受賞した。その後、1950年代末からアフリカにおいてチンパンジーやゴリラの生態を追い続け、これら霊長類の世界に大きな社会構造が存在することを世界に先駆けて解明した。その過程にて、世界ではじめて野生のサルの餌づけに成功したことでも知られる。
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== 経歴 ==
== 経歴 ==
* [[1951年]] - 京都大学理学部動物学科卒業
* [[1951年]]3月 - 京都大学[[理学部]]動物学科卒業
* 1951年4月 - [[日本モンキーセンター]]専任研究員
* [[1955年]] - 毎日出版文化賞受賞
* [[1981年]] - 京都大学理学部教授に就任。
* [[1962年]]10月 - 京都大学理学部[[助教授]](自然人類学講座)
* [[1981年]]7月- 京都大学理学部[[教授]](人類進化論講座)
* [[1984年]] - [[王立協会|英国王立協会]]よりトーマス・ハックスリー記念賞を受賞
* [[1986年]] - 京都大学アフリカ地域研究センター初代所長に就任。
* [[1986年]]4月- 京都大学アフリカ地域研究センター所長(初代 1990年3月まで)
* [[1991年]] - 京都大学名誉教授。
* [[1990年]]3月- 京都大学退官
* [[1990年]]4月- 京都大学名誉教授 [[神戸学院大学]][[人文学部]]教授(1998年まで)
== 受賞歴 ==
* [[1955年]] - 毎日出版文化賞受賞
* [[1984年]] - [[王立協会|英国王立協会]]よりトーマス・ハックスリー記念賞を受賞
* [[1991年]] - 大同生命地域研究賞
* [[1992年]] - [[紫綬褒章]]
* [[1997年]] - 勲三等瑞宝章


==主な著書==
==主な著書==

2007年12月13日 (木) 13:44時点における版

伊谷 純一郎いたに じゅんいちろう1926年5月9日 - 2001年8月19日)は、日本の生態学者、人類学者、霊長類学者。京都大学名誉教授理学博士(京都大学、1962年)。今西錦司の跡を継ぎ、日本の霊長類研究を世界最高水準のものとした。鳥取県鳥取市生まれ。

当初は大分県高崎山のニホンザルの生態研究を行い、著作『高崎山のサル』(1954年)で毎日出版文化賞を受賞した。その後、1950年代末からアフリカにおいてチンパンジーやゴリラの生態を追い続け、これら霊長類の世界に大きな社会構造が存在することを世界に先駆けて解明した。その過程にて、世界ではじめて野生のサルの餌づけに成功したことでも知られる。

この業績は高く評価され、1984年に「人類学のノーベル賞」と称されるトーマス・ハックスリー記念賞を日本人として初めて受賞した。

後年、調査対象を霊長類からヒトにまで拡大し、焼畑農耕民族や狩猟民、遊牧民などの生態を研究した。京都大学にアフリカ地域研究センターを設立し、人類学や生態学といった領域にとらわれない学問研究の流れを作った功績も大きい。


経歴

受賞歴

主な著書

エピソード

彼が幸島のサルを研究した際、雌ザルに惚れられたことがある。そのサルはイモという名で、サルの文化的行動として有名になったイモ洗いを考案した才媛である。雌ザルが男性研究者に向かって求愛を示すことは実際にはそれほど珍しいわけではないが、ほとんどは初めての発情期に限られる。しかしイモの場合はそれ以後も繰り返し求愛が行われ、当時新婚であった妻はそのサルに脅されたこともあったという。汚れた服を「イモに洗ってもらいなさい」と言われたこともあったと伝えられている。