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== 歴史 ==
== 歴史 ==
『富勢村史』では[[1478年]]([[文明 (日本)|文明]]10年)に[[太田道灌]]が築城したと紹介されているものの、城主は不明としている{{Refnest|group="注"|1478年(文明10年)12月に太田道灌が[[千葉孝胤]]、[[原氏]]、[[木内氏]]と下総国境根原で戦い、これを敗った。この時、更に道灌の子、[[太田資忠|資忠]]が[[臼井城]]を包囲し、富勢村史はこの際に臨時の城として根戸城を作ったという{{Sfn|千野原靖方|2004|p=240、241}}。}}。また、『千葉縣東葛飾郡誌』には、[[相馬胤村|相馬胤村次郎左衛門]]の三男・[[根戸胤光|根戸三郎胤光]]の居地と紹介し、その後道灌の改築を経たことを述べているが、その後の経過については不明であるとしている。そしてこの2つの記述を統合すると根戸城は当初[[相馬氏|相馬一族]]の居地として利用され、その後文明年間に道灌が改築し、道灌が去った後は誰の居住地になったところか不明であることになる。しかしこれらが事実であると断定する事はできない{{Sfn|根戸城遺跡調査団|1978|p=22}}<ref name=":0" />{{Cite web |date=2015-11-01 |url=http://teganuma-trust.jp/numa/2015/numa_2015_11.pdf |title=NPO法人手賀沼トラスト会報第50号 沼のほとり |format=PDF |publisher=NPO法人手賀沼トラスト |accessdate=2019-08-11 |language=日本語|page=1}} 。[[1985年]]([[昭和]]60年)には我孫子市教育委員会が発掘調査を行っている<ref>{{Cite web|url=https://www.city.abiko.chiba.jp/kouko/tenjishitsu/chukinsei/nedozyo.html|title=あびこ電脳考古博物館 根戸城跡|accessdate=2019年7月14日|publisher=我孫子市教育委員会生涯学習部文化・スポーツ課 歴史文化財担当|quote=1985年(昭和60年)城域の範囲確認調査をおこないました。|language=日本語|website=あびこ電脳考古博物館}}</ref>{{Sfn|根戸城遺跡調査団|1978|p=33}}。
『富勢村史』では[[1478年]]([[文明 (日本)|文明]]10年)に[[太田道灌]]が築城したと紹介されているものの、城主は不明としている{{Refnest|group="注"|1478年(文明10年)12月に太田道灌が[[千葉孝胤]]、[[原氏]]、[[木内氏]]と下総国境根原で戦い、これを敗った。この時、更に道灌の子、[[太田資忠|資忠]]が[[臼井城]]を包囲し、富勢村史はこの際に臨時の城として根戸城を作ったという{{Sfn|千野原靖方|2004|p=240、241}}。}}。また、『千葉縣東葛飾郡誌』には、[[相馬胤村|相馬胤村次郎左衛門]]の三男・[[根戸胤光|根戸三郎胤光]]の居地と紹介し、その後道灌の改築を経たことを述べているが、その後の経過については不明であるとしている。そしてこの2つの記述を統合すると根戸城は当初[[相馬氏|相馬一族]]の居地として利用され、その後文明年間に道灌が改築し、道灌が去った後は誰の居住地になったところか不明であることになる。しかしこれらが事実であると断定する事はできない{{Sfn|根戸城遺跡調査団|1978|p=22}}<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |date=2015-11-01 |url=http://teganuma-trust.jp/numa/2015/numa_2015_11.pdf |title=NPO法人手賀沼トラスト会報第50号 沼のほとり |format=PDF |publisher=NPO法人手賀沼トラスト |accessdate=2019-08-11 |language=日本語|page=1}}</ref> 。[[1985年]]([[昭和]]60年)には我孫子市教育委員会が発掘調査を行っている<ref>{{Cite web|url=https://www.city.abiko.chiba.jp/kouko/tenjishitsu/chukinsei/nedozyo.html|title=あびこ電脳考古博物館 根戸城跡|accessdate=2019年7月14日|publisher=我孫子市教育委員会生涯学習部文化・スポーツ課 歴史文化財担当|quote=1985年(昭和60年)城域の範囲確認調査をおこないました。|language=日本語|website=あびこ電脳考古博物館}}</ref>{{Sfn|根戸城遺跡調査団|1978|p=33}}。


== 発掘調査 ==
== 発掘調査 ==

2020年2月18日 (火) 13:07時点における版

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根戸城
千葉県
堀切跡
別名 根戸城山
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 太田道灌
築城年 1478年 (文明10年)?
主な改修者 改修なし
主な城主 太田道灌?、根戸三郎胤光?
廃城年 不明
遺構 郭、土塁、空堀
指定文化財 なし
登録文化財 なし
再建造物 なし
位置 北緯35度52分21.7秒 東経139度59分37.6秒 / 北緯35.872694度 東経139.993778度 / 35.872694; 139.993778
地図
根戸城の位置(千葉県内)
根戸城
根戸城
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根戸城(ねどじょう)は、下総国相馬郡(現在の千葉県我孫子市根戸字荒追付近)にあった日本の城。我孫子市内で最も西に位置する。現在は私有地になっている。同城について記載した最初の文献は1920年大正9年)刊行の『富勢村史』であり、はっきりと断定できることは何一つない[1]

本記事では、根戸城の至近に位置する法華坊館(ほっけぼうやかた、ほうかぼうやかた)についても解説する。

構造・現状

根戸城は、標高16〜18mの下総台地に築城されており[注 1][3]、東西2つの郭から構成されている直線連郭式の城である。南には手賀沼を望むことが出来る[4][5]

現状

などの遺構の遺存状態は極めて良好で、現在では我孫子市で最も良好な遺存状態であると言える。現在は城の多くが山林になっており、南側の低地は畑及び水田と化している[4]

東側の郭は城郭のほぼ中心に位置し、標高は約16mである。その周りを東、北、西に空堀が巡り、東西の郭の境になっている。更に堀と郭の間には土塁が築かれていて、西南西と南に内外の連絡通路としたと推測される開口部がある。また、この東側の郭は台形に似た形をしている[注 2]。一方で西側の郭は南北に長い長方形のような形をしており、標高は約19mの所にある。南は天然の急峻な、それ以外は空堀になっている[6]

櫓台

東側の郭のさらに東側は突出していて、櫓台があったと考えられている。この説には根拠がなく、正しいかどうかは分からないが、東西約6m、南北13mの城郭の中で最も東に位置するこの場所は物見櫓の役割を果たしていたことは確認できる。標高は15.5mで、現在はそこに根戸城があったことを示す我孫子市教育委員会の看板が立っている[7]

根小屋

東側の郭の北西には、帯状の腰曲輪または犬走りの様な構造が残っていて、その北東部の台地の下は西から東へと降りる緩やかな斜面となっている。この斜面は中腹から少し下がったところで段状になっていて、ここは人為的につくったものであることが認められる。ここにある平面の土地、段状の土地は古くから「根小屋」といわれている[8]

虎口

東側の郭にはの節で解説したように2か所の開口部があり、そのうち南側のものは前にわずかにテラス状構造が構成されている。さらにその先には民家の裏に出る崖方向に道型のへこみがみられ、虎口と考えられている。また、西南西の開口部もかなり形を失ってはいるが西に短い道の様な線が残っており、脇虎口と考えられている[9]

歴史

『富勢村史』では1478年(文明10年)に太田道灌が築城したと紹介されているものの、城主は不明としている[注 3]。また、『千葉縣東葛飾郡誌』には、相馬胤村次郎左衛門の三男・根戸三郎胤光の居地と紹介し、その後道灌の改築を経たことを述べているが、その後の経過については不明であるとしている。そしてこの2つの記述を統合すると根戸城は当初相馬一族の居地として利用され、その後文明年間に道灌が改築し、道灌が去った後は誰の居住地になったところか不明であることになる。しかしこれらが事実であると断定する事はできない[1][3][11]1985年昭和60年)には我孫子市教育委員会が発掘調査を行っている[12][13]

発掘調査

前述の通り根戸城では1985年(昭和60年)の7月25日から9月17日に発掘調査が行われていて、住居跡9軒の他、土壙6基が見つかっている。

発掘調査の経緯

Aトレンチは西側の郭のさらに西に、Bトレンチはそのさらに西に、Cトレンチは西側の郭の北に、Dトレンチは東側の郭の北北西の根小屋の坂へ通じる傾斜の上に、EトレンチはDトレンチのさらに北西に、それぞれ設定されている。

日付 場所 内容
7月25~30日 郭の北側 数年間全く手入れがされていなかったため、雑草狩り。
7月31日 西側の郭(以後西郭と省略) 郭内の草刈り。
8月1日 西郭 北側コーナ部、北側空堀部で写真撮影。
8月2日 西郭 北側の小土塁の写真撮影。
8月3日 西郭 発掘区を確保するために草刈りを再び始める。
8月5日 西郭 南の崖と西から北にトレンチAからDを設定。
8月6日 Cトレンチ 発掘開始。
8月8日 Cトレンチ、Bトレンチ、西郭 Cトレンチの表土剥ぎ終了。縄文前期古墳時代の落ち込み数軒を発見する。また、西郭を完掘し、Bトレンチに着手する。
8月9日 Bトレンチ、Aトレンチ Bトレンチを掘り終わる。古墳時代の住居跡が発見される。
8月12日 Aトレンチ、西郭 どちらも終了。
8月17日 Dトレンチ 着手。
8月19日 Dトレンチ Dトレンチとかぶる東側の郭(以後東郭と省略)の北北西に位置する土塁に白色粘土が塗ってあることを発見する。
8月22日 Dトレンチ、Eトレンチ Dトレンチで古墳時代の住居跡が発見される。Eトレンチの発掘を開始する。
8月23日 Dトレンチ、Eトレンチ他 Dトレンチ、Eトレンチの発掘を終了し、各トレンチで発見された住居跡を01住居跡から順にさらに発掘する。また、写真撮影と遺跡の実測に取りかかる。
9月7日 住居跡、土壙 完掘。
9月10日 千葉県文化課天野副主査、瀬戸文化財主事が現地を視察。
8月11~17日 各トレンチ 各トレンチを埋め戻し発掘調査を終了する。

[14]

出土物

  1. 瀬戸産鉢[15]
  2. 住居跡9軒
  3. 土壙6基[16]
  4. 鉄製釘
  5. 瀬戸窯鉄釉擂鉢口縁部1点
  6. 瀬戸窯擂鉢2点[17][18]

その他の成果

Aトレンチでは諸薬研堀が発見されていて、これは人の手によって埋め戻されたことがわかり、破城された可能性があることが、報告されている[5]

アクセス

法華坊館

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法華坊館
千葉県
別名 法花坊館、法華坊遺跡
城郭構造 不明
天守構造 なし
築城主 根戸氏?
築城年 不明
主な城主 根戸三郎胤光?
廃城年 不明
遺構 なし
指定文化財 なし
位置 北緯35度52分33.48秒 東経139度59分37.51秒 / 北緯35.8759667度 東経139.9937528度 / 35.8759667; 139.9937528
地図
法華坊館の位置(千葉県内)
法華坊館
法華坊館
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法華坊館(ほうかぼうやかた、ほっけぼうやかた)は根戸城の約300m北の我孫子市根戸台田4丁目付近にあった城館

構造

手賀沼の北の谷津に面した標高18mの台地上にあった。等脚台形の形をしていて、西を除く三方はすべて谷津に囲まれていた。現在は宅地化して遺構は全く残っていない。ただ、跡地は一部が台田法華坊公園になっている。規模は東西約230m、南北約220mで、西と南は土塁が設けられ、東と北は腰曲輪と空堀が存在した。また、南西部にある土塁の途切れた個所は虎口と考えられている[19]

歴史

歴史の節で言及した通り『相馬之系図』『相馬岡田系図』には鎌倉時代に相馬胤村の三男が根戸三郎胤光と名乗っている。そのため根戸の地は相馬氏の支配下にあったと考えられている。よってこの法華坊館も相馬一族に関係する城館だという説が有力であるが、確かな根拠はない[20]

アクセス

脚注

注釈

  1. ^ ただし、『千葉県我孫子市中峠城跡調査報告書』には標高15〜18mと記載されている[2]
  2. ^ 東の辺約14m、西は約30m、南は約33m、北は約28m。
  3. ^ 1478年(文明10年)12月に太田道灌が千葉孝胤原氏木内氏と下総国境根原で戦い、これを敗った。この時、更に道灌の子、資忠臼井城を包囲し、富勢村史はこの際に臨時の城として根戸城を作ったという[10]

出典

  1. ^ a b 根戸城遺跡調査団 1978, p. 22.
  2. ^ 我孫子市中峠中世城跡発掘調査団 1974, p. 36.
  3. ^ a b ~城と古戦場~ 根戸城”. 城と古戦場. 2019年8月10日閲覧。 “標高16m、比高13m。”
  4. ^ a b 根戸城遺跡調査団 1978, p. 21.
  5. ^ a b c d 千野原靖方 2004, p. 239.
  6. ^ 根戸城遺跡調査団 1978, p. 24、25.
  7. ^ 根戸城遺跡調査団 1978, p. 27.
  8. ^ 根戸城遺跡調査団 1978, p. 29.
  9. ^ 根戸城遺跡調査団 1978, p. 30.
  10. ^ 千野原靖方 2004, p. 240、241.
  11. ^ NPO法人手賀沼トラスト会報第50号 沼のほとり” (PDF). NPO法人手賀沼トラスト. p. 1 (2015年11月1日). 2019年8月11日閲覧。
  12. ^ あびこ電脳考古博物館 根戸城跡”. あびこ電脳考古博物館. 我孫子市教育委員会生涯学習部文化・スポーツ課 歴史文化財担当. 2019年7月14日閲覧。 “1985年(昭和60年)城域の範囲確認調査をおこないました。”
  13. ^ 根戸城遺跡調査団 1978, p. 33.
  14. ^ 根戸城遺跡調査団 1978, p. 33、34.
  15. ^ 根戸城遺跡調査団 1978, p. 44.
  16. ^ 根戸城遺跡調査団 1978, p. 45.
  17. ^ 根戸城遺跡調査団 1978, p. 35.
  18. ^ 千野原靖方 2004, p. 240.
  19. ^ a b 千野原靖方 2004, p. 242.
  20. ^ 千野原靖方 2004, p. 243.

参考文献

  • 根戸城遺跡調査団 編『根戸城遺跡 法華坊遺跡 北の内遺跡発掘調査報告書 第二次調査』我孫子市教育委員会、千葉県我孫子市湖北台四丁目3番1号、1978年3月。 NCID BA30903556 
  • 我孫子市中峠中世城跡発掘調査団 編『千葉県我孫子市中峠城跡調査報告書』中峠城跡調査団、1974年。 
  • 千野原靖方 編『東葛の中世城郭』(初版)崙書房、2004年2月20日。ISBN 4-8455-1101-0NCID BA66529054 

関連項目

外部リンク