足手荒神

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Mafty Nabiyu (会話 | 投稿記録) による 2012年3月29日 (木) 08:47個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (新しいページ: '{{神社 |名称 = 甲斐神社(足手荒神) |画像 = 画像:Gazoubosyu.jpg |所在地 = 熊本県上益城郡嘉島町上六嘉2242 |位置 =...')であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
甲斐神社(足手荒神)
所在地 熊本県上益城郡嘉島町上六嘉2242
位置 北緯32度44分52.4秒 東経130度46分5.7秒 / 北緯32.747889度 東経130.768250度 / 32.747889; 130.768250
主祭神 甲斐宗立公
甲斐宗運公
甲斐氏一族
社格 旧無格社
創建 天正の頃とされる
例祭 2月15日
テンプレートを表示


足手荒神(あしてこうじん)は熊本県上益城郡嘉島町上六嘉にある手足の神様を祀った神社。正式には甲斐神社であり通称足手荒神。 例祭の2月15日の際には熊本はもとより九州各地から毎年相当数の参詣者がある。 現在、熊本各地及び九州各地にある足手荒神の総本社とされ、手足の神様として篤く信仰されている。 主に手足の病気平癒、運動選手等による無病息災、交通安全の参拝が多い。

祭神

甲斐宗立(かいそうりゅう)を主祭神として甲斐宗立の父親である甲斐宗運(かいそううん)を配神として祀る。 甲斐宗立は出家後の名であり元の名は甲斐親英(かいちかひで)であった


由緒

今から四百年程前の1587年(天正15年)戦国時代末期、九州を平定した豊臣秀吉の命にて、肥後を治める事となった佐々成政太閤検地に反発し国衆、民衆が一揆を起こす(肥後国人一揆)。御船城城主の甲斐宗立と隈部親永等は三万五千の国人を率い佐々成政が居城する隈本城を攻める。一揆勢は果敢に隈本城を攻めるも、攻め落とすまであともう少しという所で、豊臣秀吉応援の大部隊が九州、四国から駆けつけ一揆は失敗に終わってしまう。一揆に失敗し手足に致命的な傷を負いながらも何とか嘉島町上六嘉に逃れた甲斐宗立はその地にて地域住人に手当を受ける。その地域住人の献身的な思いやりにいたく感激した甲斐宗立は「わが亡き後はこのお礼にこの地にて手足の守り神となろう」と言い残した。それ以来、この神社を信仰する者その数を知らず、御利益を受け全快し諸人の寄進による手型、足型、ギプス、コルセット、松葉杖と正に社殿を埋め、遠くは外国、九州一円さては遠県よりの参詣者が後を絶たず、今も尚、足手荒神さんと慕われながら、参拝する諸人の手足を守り続ける。




祭事・信仰

例祭は2月15日。その日は手足の無病息災、病気平癒を祈り手足の形をした絵馬を奉納する参拝者で賑わう。

参拝した後、病が治られた方が奉納した手型・足型にて、御利益を肖ろうとその手型・足型で手足を摩る参拝者が多い。

宗立公の父である。甲斐宗運は阿蘇神社大宮司の家臣で、戦にかけては生涯不敗だといわれ、阿蘇氏の筆頭家老として軍事外交面において阿蘇氏を支えた。 甲斐宗運は戦国時代に一度も負け知らずで薩摩島津家曰く「宗運のいる限り、肥後への侵攻はできぬ」と恐れられた程であり、その知略を生かした武功から勝負事(必勝祈願)、厄除け、の神様として篤い信仰されている。


交通アクセス

バス

  • 熊本バス「足手荒神入り口」より徒歩で約10分
  • 熊本バス「東小学校入り口」より徒歩で約5分
  • イオンモール熊本 熊本バスCホーム31番・32番のりば(県庁・健軍電停経由)から「東小学校入り口」より徒歩で約5分

  • 九州道御船IC」から熊本県道226号六嘉秋津新町線を車で約5分
  • イオンモール熊本より車で約5分
  • 九州道:「御船IC」より車で約5分。

駐車場あり。大型バスも可。

周辺

  • サントリービール九州熊本工場
  • イオンモール熊本
  • 九州自動車道 御船IC
  • 嘉島湧水天然プール
  • 浮島神社
  • 六嘉神社

外部リンク