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和家麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
和家麻呂
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 天平6年(734年
死没 延暦23年4月27日804年6月8日
官位 従三位中納言従二位大納言
主君 桓武天皇
氏族 和氏
父母 父:和国守
文継、文麻呂、明覚、女子
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和 家麻呂(やまと の いえまろ/やかまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿のち朝臣正一位・高野弟嗣(和乙継)の孫。従五位上和国守の子とする系図がある[1]官位従三位中納言、贈従二位大納言桓武天皇の従兄弟。

経歴

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延暦5年(786年従七位上から一挙に七階昇進して従五位下叙爵され、伊勢大掾に任ぜられる。延暦7年(788年造酒正に遷ると、造兵正内厩助治部大輔と京官を歴任する一方、延暦11年(792年)従五位上、延暦12年(793年正五位下次いで従四位下と、桓武朝半ばより天皇外戚(従兄弟)として急速に昇進する。

延暦15年(796年)には正四位下参議に叙任され、渡来系氏族出身者として初めて公卿に昇る[2]。延暦17年(798年従三位中納言に叙任され、同じく桓武天皇の従兄弟に当たる、右大臣神王大納言壱志濃王に次いで、太政官で第三位の席次を占める。のち、中務卿宮内卿を兼帯した。

延暦23年(804年)4月27日薨去。享年71。最終官位は中納言従三位。没後、従二位大納言の官位追贈された。

人物

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木訥な性格で、才学はなかった。天皇の外戚であったために、人臣として過分の昇進を果たしたが、天から授けられた才能には恵まれなかった。顕職に昇ってからも、旧知の者に会った際には、その者の身分が卑しいとして嫌ったりせず、握手して相語らったとして、見る者を感心させたという[2]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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  • 父:和国守[1]
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:和文継[1]
    • 男子:和文麻呂[1]
    • 男子:明覚[1]
    • 女子[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 鈴木真年『百家系図稿』巻7,和朝臣
  2. ^ a b 日本後紀』延暦23年4月27日条
  3. ^ a b c d e f g h i j 『公卿補任』

参考文献

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