薛虎子
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薛 虎子[1](せつ こし、441年 - 491年)は、北魏の官僚・軍人。本貫は代郡。
経歴
[編集]薛野䐗の子として生まれた。13歳で宮中に入り、文成帝に近侍した。太安年間、内行長に転じ、典奏諸曹事をつとめた。466年(天安元年)、文明太后が臨朝称制すると、虎子は枋頭鎮将として出向した。
剛直な性格を献文帝の近臣に憎まれ、小さな過失から鎮門士に降格された。献文帝が南巡して、山陽に宿泊したとき、虎子は帝に泣いて訴え、枋頭鎮将に復帰することができた。476年(承明元年)、平南将軍・相州刺史に任じられたが、献文帝が死去したため、赴任しなかった。478年(太和2年)、父の河東公の爵位を嗣いだ。479年(太和3年)、3人の将軍を率いて寿春に進出し、劉昶とともに南朝斉を攻撃した。480年(太和4年)、徐州の桓和らが反乱を起こし、五固に駐屯した。虎子は南征都副将となり、尉元らとともにこの反乱を鎮圧すると、彭城鎮将となった。後に開府・徐州刺史に任じられた。
沛郡太守の邵安や下邳郡太守の張攀らが汚職の摘発を恐れ、南朝との通敵の罪を捏造して虎子を誣告したことがあったが、孝文帝は虎子を信じて告発を取りあげなかった。491年(太和15年)、虎子は死去した。享年は51。散騎常侍・鎮南将軍・相州刺史の位を追贈された。諡は文といった。
子女
[編集]6人の男子があった。