清泰院 (前田光高正室)
清泰院 / 亀姫 / 大姫 | |
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生誕 | 寛永4年5月23日(1627年7月6日、または11月27日 |
死没 | 明暦2年9月23日(1656年11月9日) |
墓地 | 小石川・伝通院 |
別名 |
又鶴姫、糸姫、阿智姫 法名:清泰院殿法誉性栄大姉 |
時代 | 江戸時代前期 |
配偶者 | 前田光高 |
子供 | 綱紀、万菊丸 |
親 |
父:徳川頼房、母:側室・野沢氏 養父:徳川家光 |
清泰院(せいたいいん)は、江戸時代前期の女性。加賀藩藩主・前田光高の正室。初名は亀姫、のち大姫[1]。その他に、又鶴姫、糸姫、阿智姫(『寛政重修諸家譜』[2])[1]。
生涯
[編集]寛永4年(1627年)5月23日(「幕府祚胤伝」)、または11月27日(「水戸様系譜」)、水戸藩藩主・徳川頼房の四女として江戸で生まれる[3][1][4]。母は側室・野沢氏。はじめ亀姫といった[1]。
寛永8年(1632年)12月、徳川家光の養女となる[1]。同9年(1633年)5月10日、営中に入り、名を大姫と改める[1]。同年12月5日、前田光高と縁組、結納[1]。
(以上は「幕府祚胤伝」による。「徳川幕府家譜」では、寛永9年(1633年)12月13日、徳川家光の養女となり、前田光高と縁組、としている[3])
寛永10年(1634年)12月5日、輿入れした[1][3][5]。
寛永20年(1643年)、長男・綱紀を出産する[2]。この報せを聞いた夫・光高は大いに喜び、直後の参勤で金沢から江戸までの120里(約480km)をわずか7日で歩いた(通常は12日ほどかかる)。
正保2年(1645年)4月5日、光高が急死する[3][5]。落飾して清泰院と号する[3][2]。このとき懐妊中であり、同年、次男・万菊丸を出産したが、慶安2年(1649年)8月13日、5歳で夭折した[6]。
慶安4年(1651年)、養父・家光が没した際の遺物拝領では、実子の千代姫と同じく2万両と茶壺一つを賜っており[1][7]、養女の中でも重んじられていたと思われる。
明暦2年(1656年)9月23日、死去した[3][2]。享年30[1][2]。法名は清泰院殿法誉性栄大姉[3](「幕府祚胤伝」では、清泰院法誉性栄大姉[1])。小石川・伝通院に葬られた[3][2]。
その他
[編集]水戸黄門こと徳川光圀は母親違いの弟に当たり、『水戸黄門』第32部と第36部に登場した「明芳院」は清泰院にあたる[要出典]。ただし実際は光圀の藩主就任前に死去しているため、当然ながら光圀の隠居時代には存命していない。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 堀田正敦等 編「巻第1131」『寛政重修諸家譜』 第十七(新訂)、続群書類従完成会、1965年11月30日。NDLJP:2985866。(要登録)
- 「徳川幕府家譜」『徳川諸家系譜』 第一、続群書類従完成会、1970年7月30日。NDLJP:12211158。(要登録)
- 『徳川諸家系譜』 第二、続群書類従完成会、1974年8月30日。NDLJP:12211157。(要登録)