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広橋仲光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
広橋仲光
時代 南北朝時代 - 室町時代初期
生誕 暦応4年/興国2年12月23日1342年1月30日[注釈 1]
死没 応永13年2月12日1406年3月2日
改名 仲光→曇寂(法名)
別名 勘解由小路
官位 従一位権大納言大宰権帥
主君 光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
氏族 広橋家
父母 父:広橋兼綱
兄弟 仲光、忠業、綱厳
養兄弟:仲子
兼宣、兼時、竹屋兼俊、中珍、光海、
周鳳、仲承、長献、寅助、仲雅、光雅、光暁、崇賢門院女房、典侍兼子、女子5名
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広橋 仲光(ひろはし なかみつ)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての公卿勘解由小路と号す。准大臣広橋兼綱の子。官位従一位権大納言。日記『仲光卿記』が伝わる。南都伝奏として足利義満と様々な案件の折衝にあたったことで知られる。

経歴

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延文3年/正平13年(1358年)、元服し叙爵される。延文4年/正平14年(1359年)、従五位上に昇叙。治部少輔に任ぜられる。延文5年/正平15年(1360年)、蔵人に補される。貞治2年/正平18年(1363年)、正五位下に昇叙され右少弁に任ぜられる[注釈 2]。貞治5年/正平21年(1366年)、左少弁に転任し正五位上に昇叙。応安7年/文中3年(1374年)には権右中弁、左中弁と昇進し、位は従四位下、従四位上、正四位下と昇叙。永和2年/天授2年(1376年)、蔵人頭に補される。永和3年/天授3年(1377年)、正四位上に昇叙。

永和4年/天授4年(1378年)3月24日、参議に任ぜられる。右大弁は元の如し。12月13日、従三位に叙せられ権中納言に任ぜられる。永徳元年/弘和元年(1381年)1月6日、正三位に昇叙。3月16日、従二位に昇叙。6月29日、大宰権帥を兼ねる。至徳2年/元中2年(1385年)1月6日、正二位に昇叙。嘉慶2年/元中5年(1388年)12月30日、権大納言に任ぜられる。応永2年(1395年)6月3日、権大納言を辞した。応永3年(1396年)10月20日、従一位に叙せられるが、翌21日に出家した。法名は曇寂。応永13年(1406年)2月12日、薨去。

系譜

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  • 父:広橋兼綱(1315-1381)
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 男子:広橋兼宣(1366-1429)
    • 男子:兼時
    • 男子:竹屋兼俊
    • 男子:中珍
    • 男子:光海
    • 男子:周鳳
    • 男子:仲承
    • 男子:長献
    • 男子:寅助
    • 男子:仲雅
    • 男子:光雅
    • 男子:光暁
    • 女子:崇賢門院女房
    • 女子:典侍兼子
    • 女子
    • 女子
    • 女子
    • 女子
    • 女子

脚注

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注釈

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  1. ^ 『尊卑分脈』による。なお、立春(12月21日)以降に生まれたため、翌午歳(暦応5年/康永元年/興国3年)誕生扱いにされたと注記されている[1]
  2. ^ 『師守記』には職事蔵人右少弁仲光として登場する。

出典

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  1. ^ 遠藤珠紀「徳川家康の誕生年について」『戦国史研究』第86号、2023年9月、P34-35.

参考文献

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  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※永和4年/天授4年(1378年)に仲光が参議となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「広橋仲光」の項。
  • 『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社
  • 『師守記』、国立国会図書館
  • 今谷明『室町の王権―足利義満の王権簒奪計画』、中公新書