無量光院跡
無量光院跡(むりょうこういんあと)は、岩手県平泉町にある史跡である。
無量光院は、藤原秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院であった。当時は平等院の規模をも上回る煌びやかな寺院であったが、度重なる火災で焼失し、今日では土塁や礎石が残るのみである。
「平泉 - 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の一つとしてユネスコの世界遺産に登録されており、国の特別史跡に指定されている。
沿革
平安時代末期奥州に勢力を振るった奥州藤原氏は、初代藤原清衡が中尊寺、二代藤原基衡が毛越寺を造営した。そして三代藤原秀衡が建立したのが無量光院である。無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し、『吾妻鏡』にも無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁「平泉館」があったと記載されている。
『吾妻鏡』によれば、無量光院は京都府宇治市の平等院を模して造られ、新御堂(にいみどう)と号した。新御堂とは毛越寺の新院の意味である。発掘調査の結果、四囲は東西約240メートル、南北約270メートル、面積約6.5ヘクタールと推定され、平等院よりも規模が大きかったと推定される。
本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で、地形や建物の配置も平等院を模したとされるが、中堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なる。本堂の規模は鳳凰堂とほぼ一致だが、翼廊の長さは一間分長い。建物は全体に東向きに作られ、敷地の西には金鶏山が位置していた。配置は庭園から見ると夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように設計されており、浄土思想を体現していた。
現状
奥州藤原氏の滅亡以降、無量光院は度重なる火災で焼失し、今日では土塁や礎石、池跡が残るのみで[1]、跡地には水田と松林が広がっている。1952年(昭和27年)に行われた発掘調査によって、本堂や庭園の規模や配置が明らかになり、『吾妻鏡』の記述が裏付けられた。1955年(昭和30年)に国の特別史跡に指定された。
世界遺産
2001年(平成13年)に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載された。しかし、2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期と決定された。
登録は結局見送られたものの、文化庁・岩手県では、ユネスコへの再度の申請を目指し、2011年5月に国際記念物遺跡会議が、世界遺産への登録を勧告し、同年6月25日に第35回世界遺産委員会の審議によって、「平泉 - 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として世界遺産に登録された。
世界遺産登録後、文化庁や県では、庭園及び寺院の本格復元を含めて検討することにしている。
関連項目
脚注
- ^ 昭和27年文化財保護委員会(現文化庁)により本堂跡及び中島の発掘調査が行われ、礎石建物跡や庭石、土塁や土壇などの遺構が良好に保存されていることが明らかになった。