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滅満興漢

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滅満興漢(めつまんこうかん)とは中国の歴史の用語の一つ。清朝末期に唱えられたスローガンである。

概要

満州族王朝である清朝は1644年明朝李自成によって滅ぼされると、万里の長城を越えて侵攻し、華北華南を含む漢族の居住地を征服した。以来、中国では少数の満州族が多数の漢族を支配する征服王朝が300年近くにわたって続くことになる。

1840年に清朝は阿片戦争で英国に敗北し、さらに1856年アロー号事件でも敗北すると清朝の衰退が顕在化した。その結果、「満州族を滅ぼし漢族を復興する」運動が高まり、1850年からの「太平天国の乱」などでは「滅満興漢」のスローガンが唱えられた。しかし1884年清仏戦争および1895年日清戦争の頃には、「西洋列強による中国の侵略」によって清朝は半植民地になった。このように「滿洲人か漢人か」の国内の民族紛争より重大な「外国からの侵略」という危機にさらされると、「滅満興漢(滿洲人から漢人へ)」のスローガンに代わって、「扶清滅洋(清朝を扶け、西洋を滅ぼす)」がスローガンとして叫ばれる義和団の乱が起きた。

中国の近代の歴史において「満州族の清朝を滅ぼす」という「漢族の民族主義」が国内に興る一方で、国外に対しては「西洋列強の侵略」を撃退する「中国の民族主義」が興り、この2つの流れが、歴史を形成していくことになる。なお「滅満興漢」を叫んだ「太平天国の乱」を平定した頃の清朝における、「中体西用」「洋務運動」という「清朝の建て直し(同治の中興)」を担った官僚たち(例:曾国藩李鴻章左宗棠)も漢族が多かった。また清朝打倒運動を展開した孫文宋教仁黄興秋瑾などの革命家も漢族が多く、彼らは辮髪を切るなどして、清朝への反逆を表明した。

1912年辛亥革命で清朝が滅亡し中華民国が成立するが、これは「(大多数の)漢族主導による新しい中国」といえ、「滅満興漢」の「興漢」は達成されたといえる。

関連項目