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湯浅宗光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
湯浅宗光
時代 鎌倉時代
生誕 不明
死没 不明
別名 七郎、七郎左衛門尉[1]
氏族 湯浅氏
父母 父:湯浅宗重[1][2]
宗業(宗成)
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湯浅 宗光(ゆあさ むねみつ)は、鎌倉時代の武士。湯浅宗重の七男[2]

経歴・人物

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建久8年(1197年文覚より紀伊阿氐河荘下司職を譲られるが、正治元年(1199年)8月、領家の四条隆房より狼藉を停止するよう命じられる[1][2]承元4年(1210年)2月、幕府より相伝の職として阿氐河荘の地頭職を安堵された[1]

承久元年(1219年)8月、熊野神人に訴えられ対馬に流されたが、その所領は子の宗業(宗成)に安堵され、2年後の承久3年(1221年)閏10月に戻されて阿氐河荘、保田荘田殿荘石垣河北荘地頭職に安堵され、以降、保田氏を名乗るようになる[1][2][3]

元仁元年(1224年)頃、神護寺領紀伊国挊田荘の境界に関する争論では、京都において高野山の住僧・勝悟と対決した[1]。宗重の庶子でありながら、保田氏が湯浅一族の主導的立場に立つ基礎を築いた[3]。のちに出家し、浄心と号した[1][3]

その後、寛喜3年(1231年)4月の湯浅景基寄進状の筆頭に名がみえ、嘉禎4年(1238年)10月に一族が八条辻固に結番されたとき、3番の筆頭を務めた[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 安田 1985, 633頁.
  2. ^ a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『湯浅宗光』 - コトバンク
  3. ^ a b c 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『湯浅宗光』 - コトバンク

参考文献

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  • 安田元久編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年。ISBN 4404013027