湯浅宗光
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時代 | 鎌倉時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 七郎、七郎左衛門尉[1] |
氏族 | 湯浅氏 |
父母 | 父:湯浅宗重[1][2] |
子 | 宗業(宗成) |
湯浅 宗光(ゆあさ むねみつ)は、鎌倉時代の武士。湯浅宗重の七男[2]。
経歴・人物
[編集]建久8年(1197年)文覚より紀伊阿氐河荘下司職を譲られるが、正治元年(1199年)8月、領家の四条隆房より狼藉を停止するよう命じられる[1][2]。承元4年(1210年)2月、幕府より相伝の職として阿氐河荘の地頭職を安堵された[1]。
承久元年(1219年)8月、熊野神人に訴えられ対馬に流されたが、その所領は子の宗業(宗成)に安堵され、2年後の承久3年(1221年)閏10月に戻されて阿氐河荘、保田荘・田殿荘・石垣河北荘の地頭職に安堵され、以降、保田氏を名乗るようになる[1][2][3]。
元仁元年(1224年)頃、神護寺領紀伊国挊田荘の境界に関する争論では、京都において高野山の住僧・勝悟と対決した[1]。宗重の庶子でありながら、保田氏が湯浅一族の主導的立場に立つ基礎を築いた[3]。のちに出家し、浄心と号した[1][3]。
その後、寛喜3年(1231年)4月の湯浅景基寄進状の筆頭に名がみえ、嘉禎4年(1238年)10月に一族が八条辻固に結番されたとき、3番の筆頭を務めた[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 安田元久編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年。ISBN 4404013027。