湯浅 宗業(ゆあさ むねなり、建久6年(1195年) - ?)は、鎌倉時代の武士[1]。湯浅宗光の次男[1]。子に湯浅宗家[2]。通称は保田次郎左衛門尉[1]。
紀伊保田荘の地頭[1]。在京して六波羅探題に仕えた[3]。弘長2年(1262年)出家し、明恵に帰依、智眼と号す[1][3]。荘内に星尾寺を草創、その開基の経緯をしるした「智眼置文」が高山寺にのこる。『十訓抄』の作者ともいわれる[3]。