澤田半之助

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澤田 半之助(さわだ はんのすけ、1868年 - 1934年)は日本の実業家労働運動家。洋服の仕立職人としてアメリカ合衆国に在住中に高野房太郎と知り合い、帰国後の1897年に高野らとともに労働組合期成会を結成した。のち、米友協会幹事として横須賀市久里浜ペリー上陸記念碑の建立に関わった。

生涯[編集]

1868年に現在の福島県須賀川市で生まれる。洋服の仕立職人となり、1890年明治23年)に渡米。カリフォルニア州サンフランシスコで日本人として初めて洋服店を開く[1]。澤田の店は、同じ日本人の靴職人であった城常太郎(じょう・つねたろう)の店に寄寓する形であった[1]。在米の新聞記者だった鷲津尺魔の著書『在米日本人史観』(羅府新報社、1930年)によると、当時在米日本人は貧しく洋服を買うことはほとんどなかったため、「洋服屋とは名ばかりで、洗濯、直し物等が主なるものであった。新造の注文などは開業当初はなかった」という[1]

この在米中に、当時サンフランシスコ商業学校で学んでいた高野房太郎と知り合い、高野と城・澤田は1891年にサンフランシスコで職工義友会を設立した[1]。日本に帰国後の1897年、高野や城らとともに労働組合期成会の結成に参加する。期成会の最初の事務所は、東京市京橋区元数寄屋町(現・東京都中央区銀座)にあった澤田の店舗「澤田洋服進調所」に置かれていた[2][3]1899年には東京洋服裁縫業組合を結成している[4]。しかし、1901年に労働組合期成会が解散すると労働運動から離れた[1]

その後、澤田はアメリカ在住経験者らで結成された米友協会の幹事となり、ペリー上陸記念碑の建立に関わった。一方、本業の洋服製造業では鉄道院総裁の後藤新平の依頼により、国有鉄道職員の制服制定に携わる。この制服は現場の職員からは評判がよくなく、「澤田の洋服店に対する救済事業ではないか」「澤田が後藤に取り入ったのでないか」といった噂話がなされたという[5]。1934年死去。

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 高野房太郎とその時代(35) - 二村一夫著作集(法政大学大原社会問題研究所
  2. ^ 高野房太郎の旧跡探検(その8)──労働組合期成会事務所跡 - 二村一夫著作集(《編集雑記》13)
  3. ^ 高野房太郎とその時代(70) - 二村一夫著作集
  4. ^ 高野房太郎とその時代(86) - 二村一夫著作集
  5. ^ 瓜生卓爾「後藤新平総裁制定の不評判な短剣服 」 - 清水啓次郎(編)『交通今昔物語』工友社、1933年