江戸通雅
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| 時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
|---|---|
| 生誕 | 寛正4年(1463年)[1] |
| 死没 | 永正7年12月20日(1511年1月19日)[2] |
| 改名 | 通俊[3](初名)→通雅 |
| 別名 | 藤五郎[3] |
| 戒名 | 通義通徹[3][4] |
| 官位 | 従五位下・但馬守[3] |
| 主君 | 佐竹義舜 |
| 氏族 | 常陸江戸氏 |
| 父母 | 父:江戸通秀(修理亮)、母:稲本[3] |
| 兄弟 |
(通房が父の場合)通秀、通長、通雅、 鳥子通治、鯉淵頼通、小野崎通栄、 枝川通弘、春秋通式、祐通、大山義成室[3] (通秀が父の場合)通長、通雅、 男子(円通寺僧) (通長が父の場合)通雅、通式[5]、獨放鈍聚和尚[5]、佐竹義治妾[5] |
| 妻 | 松嶺[3](法名、小野崎朝通娘[3][4]) |
| 子 |
通則[4]、通泰、通廣[4]、雅胤[4]、 鹿島景幹室[4][6]、完戸政里室[4] |
出自
[編集]略歴
[編集]寛正4年(1463年)、誕生。父は江戸通房または江戸通秀あるいは江戸通長ともされる。文明18年(1486年)、大山義成と共に徳宿城主・徳宿三郎を滅ぼした[7]。
主君の佐竹義舜とは関係が悪化していたらしく、長享年間に小野崎通綱と対立して義舜によって追放された大塚氏・根本氏を秘かに匿い、通綱に対しては先代(佐竹義治)の功臣を追放することの非を訴えて彼らが通綱に不利となるようなことをさせないことを確約した上で了承を得ている[8]。
延徳2年(1490年)4月、前当主佐竹義治の葬儀の場で小場義忠と口論となり、激怒した義舜によって幽閉された[9]。間もなく許されたものの、7月山入の乱で山入義藤に呼応し水戸城周辺から那珂川にかけての佐竹氏の所領を奪うも、明応元年(1492年)に義藤が死ぬと岩城氏の仲介で佐竹義舜と和睦、那珂川周辺の所領を義舜に返還した。翌明応3年(1494年)、父または兄である通長が没したため、家督を継いだ[10]。
以後、佐竹義舜に従属して永正元年(1504年)、義舜と共に山入氏義を攻め滅ぼした。永正7年(1510年)12月2日、義舜から「一家同位」の家格を認められた[11][12]が、直後の12月20日に死去。享年49。
脚注
[編集]- ↑ 永正7年(1511年)に49歳で死去していることから、生年は逆算して寛正4年(1463年)と思われる。
- ↑ 『大日本史料』第9編之2 948頁
- 1 2 3 4 5 6 7 8 『常陸三家譜』
- 1 2 3 4 5 6 7 『常陸史料』
- 1 2 3 『江戸氏譜』
- ↑ 『鹿島治乱記』
- ↑ 『大日本史料』第8編之19 283頁
- ↑ 高橋裕文『中世佐竹氏の研究』青史出版、2020年、152-154頁。ISBN 978-4-921145-69-9。
- ↑ 高橋裕文『中世佐竹氏の研究』青史出版、2020年、157頁。ISBN 978-4-921145-69-9。
- ↑ 『史料綜覧』第8編之909 12頁
- ↑ 佐竹氏と全く同格(『水戸市史』)ともいうが、佐竹氏の動向から、佐竹一門等と同格に見なすものとされる(『茨城県史』中世編)
- ↑ 『大日本史料』第9編之2 938頁
出典
[編集]- 『常陸三家譜』
- 『江戸氏譜』
- 『常陸史料』
- 『鹿島治乱記』
- 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第9編之2』1931年、948-952頁。doi:10.11501/3450612。