武田信実

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武田信実
時代 室町時代
生誕 大永4年7月18日1524年8月17日
死没 弘治元年10月6日1555年10月21日)?
官位 刑部少輔安芸守
氏族 武田氏
父母 父:武田元光
兄弟 兄:武田信豊

武田 信実(たけだ のぶざね)は、戦国時代の武将。国人領主としての安芸武田氏最後の当主。若狭守護武田元光の子。

生涯[編集]

幼少の頃は僧侶となる予定で栖雲寺に入っていたとされる[1]天文9年(1540年)6月に安芸武田氏当主武田光和が急死[2]すると、安芸分郡守護である若狭武田氏から迎えられ、その養子として安芸武田氏の当主となる。羽賀寺福井県小浜市)に残る『羽賀寺年中行事』によると、光和の死後に出雲の使者が若狭に来て信実の安芸武田氏の継承を要請した旨が記されており、安芸武田氏には少なからず尼子氏の影響があったと考えられている。

光和の跡を継いで第9代安芸武田氏当主となったものの、重臣間では周防の大名大内氏との講和についての意見対立が起きており、ついには品川一党香川氏の居城八木城を攻撃する内紛が生じた。しかし、安芸平賀氏熊谷氏らが香川氏に援軍を出すとの報に接した品川一党は退却。大混乱をきたした武田氏家臣は佐東銀山城を捨てて逃亡。事態の急変に対して何の手を打つことができなかった信実も、佐東銀山城を捨て、出雲に逃亡した。

同年9月、尼子詮久毛利元就討伐のため安芸に出陣。晴久に安芸武田氏復興の援助を求めた信実は、兵2,000を率いる牛尾幸清と共に、佐東銀山城に帰城する。しかし、尼子詮久の郡山城攻略は遅々として進まず、11月には、信実も毛利軍の国司元相勢と戦うが敗北している。翌年(1541年)、陶隆房率いる大内氏の援軍と毛利方の反撃により、詮久は無残な退却を強いられることとなる(吉田郡山城の戦い)。

尼子氏の敗北により、再び佐東銀山城が孤立すると、信実はまたもや城を捨てて牛尾幸清と共に出雲へ逃亡し、安芸国に戻ることはなく、城兵の多くも逃亡した。信実は弘治元年10月6日(1555年10月21日)に出雲で逝去したとされていた。ところが、近年の研究では室町幕府の幕臣の名簿にある「永禄六年諸役人附」に登場する「武田刑部大輔信実」が信実のその後の姿であったとされている[1]。この信実は若狭国を本拠とする奉公衆本郷信富と親交が深く、足利義昭の将軍就任後に信富の身上についてとりなしたり、彼から武家故実の指導を受けていたことが知られる。尊経閣文庫に所蔵されている『両家聞書』は信実の著作とされ、紙背文書には彼や若狭武田氏の一族・家臣からの書状などが用いられている。皮肉にも足利義昭が織田信長によって京都から追放されると、義昭に同行する形でかつての敵である毛利氏を頼ることになり、天正5年(1577年)に足利義昭が熊谷信直に充てた御教書[3]に登場する「信実」が武田信実に比定できるのが、記録上の最後となっており、間もなく没したと推定されている[1]

その一方、佐東銀山城には安芸武田氏の一族の武田信重[4]が300余の兵と共に籠城していたが、元就の攻撃によりついに落城(佐東銀山城の戦い)。これにより、安芸武田氏は終焉を迎えることとなる。

なお、光和の庶子であったために生き残った武田小三郎(後の武田宗慶)は毛利氏に従っている。佐東銀山城に戻ることはなかったが、毛利氏の周防移封に伴って、周防武田氏と名乗るようになった。また、後代には、安芸武田氏の血を受け継ぐ(武田信重の子、もしくは武田元繁の女婿伴繁清の息子とも)安国寺恵瓊が毛利氏の外交僧として活躍している。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 木下聡「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」木下 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-192-9
  2. ^ 没年を天文3年(1534年)とする説もある。
  3. ^ 足利義昭御内書(『大日本古文書 熊谷家文書』159号)
  4. ^ 信実の同世代の親族といわれる安芸武田氏の一族。信実の逃亡後に、安芸武田氏の家督を継いで第10代の当主になったと数える説もある。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]