武田信時

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武田 信時(たけだ のぶとき、承久2年5月17日1220年6月19日) - 正応2年2月9日1289年3月2日[1])は、鎌倉時代中期の武将甲斐武田氏の第7代当主。室町・戦国期の甲斐国守護武田宗家に至る信時流武田氏の祖。通称は武田五郎次郎。

父は第6代当主・武田信政。母は大内惟義の娘と伝わる[1]。兄弟に政綱(五郎三郎)[2]。子に武田時頼武田政頼武田時綱武田信実などがいる。

生涯[編集]

信時の祖父にあたる武田信光文治5年(1189年)の奥州合戦において安芸国への出陣催促を行っており、平家討伐後には西国へも鎌倉幕府の影響力が及び、信光は安芸守護としての職権を行使していることが指摘されており[3]承久の乱を経て再び安芸守護を在職し、文暦2年(1235年)5月9日まで在任している。

信光の孫にあたる信時は、承久の乱の前年にあたる承久2年(1220年)5月17日に甲府の館にて生まれた[1]幼名は音光丸[1]寛喜元年(1229年1月15日、当時の執権北条泰時烏帽子親として元服、「時」の偏諱を与えられて信時と名乗った[4]

鎌倉時代のうち文永3年(1266年)までの歴史が記される『吾妻鏡』には3回登場する。嘉禎3年(1237年6月23日大慈寺(現・神奈川県鎌倉市)境内に新築された丈六仏を安置するための堂の開眼供養が行われ、将軍九条頼経も参加するその行列の後陣の随兵の一人に「武田五郎次郎信時」の名が確認できる。翌4年(1238年暦仁元年)2月17日の将軍・頼経の外出に際しても、その護衛兵の47番として「武田五郎次郎」が随伴している。仁治元年(1240年8月2日箱根走湯の二所権現参りに向かう将軍・頼経が最初に鶴岡八幡宮に参詣した際、その行列の「後騎」の一人として「武田五郎次郎」も随行している。

その後『吾妻鏡』には登場しなくなるが、文永6年(1269年)4月には信時の守護代武藤時定の動向が見られ、同年11月には蒙古襲来(元寇)に備え御家人を率いて西国への出向を命じられている[5]。以来建治2年(1276年)まで西国における動向が見られ、信時は安芸守護に在職していたと考えられている[6]。ただし、建治元年(1275年)5月の『造六条八幡新宮用途支配事』によれば、「鎌倉中 武田入道跡」が100貫を納めているため、鎌倉に屋敷があったとも考えられる[7]

弘安2年(1279年5月19日出家光海と号す[1]。のち正応2年(1289年)に死去[1]し、跡を子の武田時綱が継いだ。信時は室町・戦国期の甲斐守護武田宗家に至る信時流武田氏の祖で、南北朝期には信時の曾孫にあたる信武が石和流武田氏の政義を排斥して甲斐国守護を継承し、以来室町・戦国期に至るまで甲斐守護を継承している。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)武田信時項の傍注による。
  2. ^ 政綱は甲斐国に在留し鎌倉末期には甲斐守護在職が確認される政義に至る石和流武田氏の祖。
  3. ^ 佐藤進一『増訂鎌倉幕府守護制度の研究』。
  4. ^ 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)の信時項に「後堀川院寛喜元年正月十五十)、加冠平泰時、因先例請名、故號名信時」とある。
  5. ^ 鎌倉遺文』第15巻・11741号、文永11年11月1日付執権北条時宗・連署北条義政による「関東御教書案」(『東寺百合文書』、京都府立総合資料館所蔵)。
  6. ^ 河村昭一『安芸武田氏』。
  7. ^ 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.390

参考文献[編集]

  • 秋山敬「他国に広がる甲斐源氏」『山梨県史』通史編2中世
  • 佐藤進一『増訂鎌倉幕府守護制度の研究』
  • 河村昭一『安芸武田氏』
  • 高野賢彦『安芸・若狭 武田一族』(新人物往来社、2006年)P.48-54
  • 「甲斐信濃源氏綱要」(国書刊行会編 『系図綜覧』第一 所収)

関連項目[編集]