歌川芳員

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

歌川 芳員(うたがわ よしかず、生没年不詳)とは、江戸時代末期から明治時代初期にかけての浮世絵師

来歴[編集]

歌川国芳の門人。通称は次郎兵衛、または次郎吉。歌川を称す。一寿斎、春斎、一川、一川斎と号す。江戸露月町に住んでいた。作画期は嘉永1848年 - 1854年)頃から明治3年(1870年)頃までで、主に合戦絵武者絵花鳥画草双紙の挿絵などを描いていた。しかし、横浜開港後は異人の生活風俗に興味を持ち、横浜絵を描いた絵師の中でも異才の一人であった。「異国人酒宴遊楽之図」、「外国人写真鏡之図」、「外国人どんたく遊覧行列乃図」や、各国人種、横浜の遊廓図で外国人たちの遊興を描いた。その筆致はいくらか稚拙であるが、開港まもなくの長閑で明るいのも時代の反映と、芳員の人柄によるものであろうと思われる。また、鉄道が未だ日本に無い文久元年(1861年)に描いた「亜墨利加国蒸気車往来之図」や、明治3年(1870年)に描いた「東京繁栄車往来之図」があり、それぞれ、船ともトレーラーともつかない奇妙な汽車を描いているのも面白い作品である。

作品[編集]

  • 「川一丸」 大錦3枚続 嘉永頃 一寿斎芳員の落款
  • 「東海道大井川之図」 大錦3枚続 嘉永6年(1853年)
  • 「東都繁栄之図」 大錦3枚続 安政2年(1855年)
  • 「亜墨利加洲華盛頓府之景 銅版之写生」 大判2枚続 錦絵
  • 「太平記大合戦之図」 大錦3枚続 安政3年(1856年)
  • 「新版金沢道中双六」 横大判 錦絵 江戸東京博物館所蔵 安政4年(1857年)
  • 「源頼光公足柄山にて坂田金時を抱たまふ図」 大錦3枚続 安政4年
  • 「蚕こころへ草」 大錦揃物 安政6年(1859年) 
  • 「外国官人往来之図」 大錦 万延元年(1860年)
  • 「横浜見物図会」 大錦 万延元年
  • 「外国人男女子供遊」 大錦 万延元年
  • 「異人屋敷料理之図」 大錦 万延元年
  • 「横浜港崎町郭中之正写」 大錦3枚続 万延元年
  • 「外国写真鏡之図」 大錦 万延元年
  • 「横浜港崎廓岩亀楼異人遊興之図」 大錦3枚続 万延元年
  • 「五ヶ国異人酒宴之図」 大錦3枚続 文久元年(1861年)
  • 「五ヶ国之内 南京人」 大錦 文久元年
  • 「亜米利加国蒸気船中之写」 大錦3枚続 文久元年
  • 「魯西亜」 大錦 文久2年(1862年)
  • 「文久三亥年天竺国舶来大象之写真於東都両国乾観物」 大錦 文久3年(1863年)
  • 「再改横浜明細全図」 44×84cm 再版 慶応4年(1868年)
  • 「東京繁栄車往来之図」 大錦3枚続 明治3年(1870年)
  • 「横浜異人屋敷之図」 錦絵 フリーア美術館アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵
  • 「亜墨利加蒸気船」 錦絵 フリーア美術館アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵
この錦絵は蒸気船なのに外輪が無く、航行中の筈がタラップが降りたまま等の矛盾が多い事から、芳員の創作である事がわかる[1]
これも芳員の創作で、当時写真機が珍しかったので、「フランクレズリー絵入新聞」の日本の遣米使節団の挿絵を引用し、日本人を外国人に置き換えて描いている、この様に芳員等の画家達は外国からくる珍しいものは何でも題材にした[2]
この錦絵は、フランクレズリー絵入新聞の中で「遣米使節団歓迎レセプション」の挿絵を外国人の家族に置き換えたものである、画家達は、こういった絵入新聞の挿絵等を引用しては他の作品に転用したりしていた[3]

  

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ヒストリーチャンネル(CS 342ch)「極める 日本の美と心(新 極める)」日本開国グラフィティー~YOKOHAMA PRINTS IN U・S・A~番組内の説明より抜粋
  2. ^ ヒストリーチャンネル(CS 342ch)「極める 日本の美と心(新 極める)」日本開国グラフィティー~YOKOHAMA PRINTS IN U・S・A~番組内の説明より抜粋
  3. ^ ヒストリーチャンネル(CS 342ch)「極める 日本の美と心(新 極める)」日本開国グラフィティー~YOKOHAMA PRINTS IN U・S・A~番組内の説明より抜粋

参考文献[編集]

関連項目[編集]