楊リンチェンキャプ

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楊リンチェンキャプ(Yang Rinchen skyabs、生没年不詳)は、13世紀後半にモンゴル帝国大元ウルス)に仕えたチベット仏教僧の一人。一般的に「南宋諸帝の発陵(南宋歴代皇帝の陵墓を暴いたこと)」に代表される、数々の悪事を働いたチベット仏教僧として知られる。ただし、近年の研究では様々な要因、とりわけその主君たるクビライへの批判を避けるため、ことさらに悪印象を押し付けられたのではないか、と見る説もある。

漢字表記は「楊璉真加(yáng liánzhēnjiā)であるが、「楊」は漢人風の姓、「璉真加」はチベット語名(ワイリー方式Rin-chen-skyabs; 蔵文拼音:རིན་ཆེན་སྐྱབས་)を音写したものとみられる[注釈 1]

生涯[編集]

江南への赴任[編集]

モンゴル軍の南宋征服

楊リンチェンキャプの事績について『元史』釈老伝に記載があるが、これは仕官の経緯や楊リンチェンキャプの生没年すら記さず、ただ楊リンチェンキャプの悪行を書き連ねるという列伝の体裁をなしていないものである[1]。よって、楊リンチェンキャプの出自については確かな情報が全く残っておらず、不明な点が多い[1]。楊リンチェンキャプが史料上に初めて現れるのは至元14年(1277年)2月のことで、この時楊リンチェンキャプは江南釈教総摂[注釈 2]に任命されて南宋の旧都杭州に赴任した[注釈 3][2]。この丁度1年前に杭州(臨安)はバヤン率いるモンゴル軍に投降したばかりであり、この頃急速に進められていた旧南宋領占領政策の一環としての赴任であったとみられる[3]

その後、経緯は不明であるが杭州の飛来峰呼猿洞の向かいにある永福寺[注釈 4]を手中に収め、遅くとも至元16年(1279年)より「永福大師」という称号を名乗るようになった[注釈 5]。『至元弁偽録』によると、楊リンチェンキャプはこの永福寺を拠点に至元22年(1285年)春から至元24年(1287年)の3年に渡って仏寺を30ヶ所に渡って建設し、道士7,800人を仏教僧に転向させたという[4][5]

発陵事件[編集]

南宋孝宗の永阜陵址(1918年撮影)
南宋理宗の永穆陵址の享殿

後述するように南宋諸帝の発陵にかかる記録は多数あるが、その多くは客観的な事実を述べているとは言い難いものも多いため、以下には正史たる元史の記述に従って事の経緯を記す。

まず、『元史』に関連する記述が現れるのは至元21年(1284年)9月のことで、この時楊リンチェンキャプは南宋帝陵から発掘した宝物でもって「天衣寺」を修繕せんことを請い、クビライの承認を得たとされる[注釈 6][6][7]。この記述によって、遅くと至元21年以前、楊リンチェンキャプによる「発陵」が段階的に行われていたことが確認される[8]。また、建国の功臣チャガンの子孫であるイレグ・サカルが至元21年以前、楊リンチェンキャプを弾劾したとの記録もあり[注釈 7]、この頃既に知識人の間で楊リンチェンキャプに対する悪評が広まっていたことは確実なようである[9][10]

続けて至元22年(1285年)1月、当時の宰相サンガを通じて楊リンチェンキャプは「かつて南宋は会稽の泰寧寺を壊して寧宗らの陵墓を建設し、また銭唐の龍華寺を破壊して南郊を建設した。今、泰寧寺・龍華寺を復興して皇帝・皇太子(皇上・東宮) のため祈祷すること」を請い、これを承認したクビライの勅令によって南郊の破壊と寺院の建設は実施された[注釈 8][11]。この直後、楊リンチェンキャプは至元23年(1286年)にまだ江南に残っていた南宋宗室の召喚に携わっており[注釈 9]、このことは一連の楊リンチェンキャプによる施策が南宋政権の人員や施設の処理を目的としていたことを示している[12][13]

更に、これに並行して至元14年(1277年)に焼失した南宋故宮の跡地において、楊リンチェンキャプの指示の下に至元22年(1285年)より「仏塔」と「大寺」 の建設が急速に行われ[注釈 10]、至元25年(1288年)2月丙午には「塔一」「寺五」が完成している[注釈 11][14][9]。この「寺五」は「大報国禅寺」「興元教寺」「般若寺」「小林寺」「尊勝寺」と名付けられ、それぞれ順番に禅宗天台宗白雲宗慈恩宗・チベット仏教の寺院とされた。また、「塔一」については「尊勝」と名付けられたチベット仏教式仏塔であったとされ、チベット仏教寺院とされた「尊勝寺」に付随するものであった[15]。この 「尊勝塔」はチベット仏教において釈迦の生涯を象徴する八大仏塔の一つであるrNam rygal mchod rtenの漢訳であるとみられ、後述するように楊リンチェンキャプが江南で行った所業を象徴するものとして現地の文人からは見なされていた[16]

しかし至元28年(1291年)1月に後ろ盾であるサンガが失脚すると、楊リンチェンキャプのそれまでの所業も糾弾されるようになった[17]。まず同年5月に楊リンチェンキャプによる官物の盗用が追及され[注釈 12]、続いて6月丙戌には楊リンチェンキャプの権勢に頼って税を逃れていた者たちからの徴税が実施された[注釈 13][18]。10月にはサンガの与党であった楊リンチェンキャプ・シハーブッディーン・ウマルらの妻が拘束された上[注釈 14]、楊リンチェンキャプ自身も同年11月の「楊リンチェンキャプらサンガの党与はあるいは獄に繋がれ、あるいは釈放されている」という記録[注釈 15]により一旦は捕縛されたようでもあるが、実際にどのような処遇を受けていたかは記録がない[19]

そして至元29年(1292年)3月、遂に発陵に関して「楊リンチェンキャプはサンガに賄賂することで恋に南宋の諸陵を発掘してその宝玉を取り、 その他にも塚101ヶ所を暴き、4名の人命を損ない、抄 11万6千2百錠・田2万3千畝・金銀・珠玉・宝器を詐略した」ことを糾弾され、中書省・御史台の諸臣は典刑に処して以て天下に示すことを請うたが、クビライは人口・土田の没収にとどめるよう指示し死罪は免れたという[注釈 16][20]。一連の楊リンチェンキャプに対する糾弾で注目すべきは、罪科として挙げられているのはあくまで違法蓄財・財物横領であって、朝廷において発陵そのものについては問題とされていない点である[20]。総じて、官選史書たる『元史』[注釈 17]では「発唆」が一貫して政権の公認の下行われたと示されているが、このことはモンゴル朝廷が「発陵」を問題のある行為と認識していなかったことを示唆する。これは単にモンゴル政権が江南社会の実情に無理解であったというだけではなく、そもそも遺体の埋葬に対する文化的背景の違い[注釈 18][注釈 19]、何より「発陵」を「旧政権の残滓の処分」という文脈で理解していたことによると考えられる[21]

晩年[編集]

飛来峰の至元26年無量寿仏像

先述したように、「発陵」に関する事以外の楊リンチェンキャプの動向についてはほとんど記録がなく、その没年についても知る手がかりはない。かつては至元28年(1291年)1月時点で検挙され、至元29年(1292年)初頭には死去していたとも考えられていたが[22]、いずれも明確な根拠があるわけではなく推測に過ぎない[23]

近年、チベット史研究者の乙坂智子は飛来峰に現存する仏像に1289年(至元26年)と1292年(至元29年)付けの碑文があることを紹介[注釈 20]し、至元29年時点でも楊リンチェンキャプが仏像を建立できるほどの権勢を保っていたと指摘している[24]。また、同じく飛来峰には「至元壬辰二十九年七月伸秋吉日」付けの「阿弥陀仏三尊像」「無量寿仏三尊像」「多聞天王像」が現存しており、これらの仏像は「大元功徳主資政大夫行宣政院使楊」なる人物が建立したと記される[25]。「大元功徳主資政大夫行政院使楊」と「楊リンチェンキャプ」は同姓の別人であるとも考えられるが、これらの仏像碑文の内容は前述の碑文と酷似しており、少なくとも楊リンチェンキャプと関わりの深い人物であったことが想定される[26]。もしこれらの仏像が楊リンチェンキャプの承認の下で作成されたものならば、至元29年7月の時点でもなお楊リンチェンキャプは健在であったことになる。なお、飛来峰には楊リンチェンキャプら3人と伝えられる石造もあったが、明代(16世紀)に破壊されたと伝えられている[27]

なお、楊リンチェンキャプの失脚後も息子の楊暗普が至元30年(1293年)に江浙行省左丞相に任命されており、この人事自体が楊リンチェンキャプの事績全てが否定されるものでないと朝廷が認識していたことを示唆する[注釈 21]。ただし、ただでさえ楊リンチェンキャプに対する反発が根強い江浙地方にその息子を派遣することは現地住民の感情を逆なでするようなものであり、僅か3か月後に「江南の民の楊リンチェンキャプを怨むを以て」この人事は撤回されている[注釈 22][28]。いずれにせよ、クビライが直々に死罪を免除したように楊リンチェンキャプは必ずしも悲惨な最期を遂げたわけではないようだが、後世の著作では「発唆」に対する応報として無残な死を遂げたと語られることが多い。

漢人知識人による記録[編集]

蒋士奇

大徳2年(1298年)に亡くなった周密は『癸辛雑識』続集上「楊発陵」の中で「人々は皆発陵のことについて知っているが、その詳細な内容については知らない。余はたまたま当時の互告状を写しとったため、その首尾を知ることができた」と前置きした上で、この「発険」のそもそもの発端が天衣寺の僧福聞が泰寺の僧を巻き込んで「楊髠(=楊リンチェンキャプ)」を誘ったことにあるとする[29]。この記述は「発陵で得られた財宝で天衣寺を修復した」とする『元史』の記述と使用するが、一方で「発陵」の責任は全て「仏教僧たち」にあり政権は関与していなかった、とする点は『元史』と明確に異なる[30]

また、『清容居士』巻32所収の袁桷による趙余票への追悼文では、『癸辛雑識』と同様に「矯詔(皇帝の命令の書き替え)」によって「発陵」が行われたとされ、やはり政椎側には責任がないことを示している[31]。しかしこの記述はそれ自体が大罪である「矯詔」に対する処罰が記されないなど不自然なものであり、『元史』に関連する記述が見られないことから、事実とは認めがたい[32]。『癸辛雑識』との違いとして、袁桷の記述は不正が政権の中枢(サンガ)によって行われたとする点で政権批判につながるきわどい筋書きだが、あえてクビライを登場させてその無罪を強調することで補っていると言える[33]。なお、「発陵はサンガの矯詔によって行われた」という筋書きは後世にも継承され、『新元史』にも採用されるに至っている[34]

元末に編算された『南村輟耕録』所収の「唐義士伝」は至っては、もはや発陵の背景については問題とされず、楊リンチェンキャプの悪辣さと唐珏(=唐義士)の義挙が強調される[35]。内容としては「発陵」の後に密かに遺骨を集め弔うという義挙を行った唐珏が幸福な余生を送ったとする因果奇跡諢であり、もはや史実の「発陵」とはかけ離れた筋書きとなっている[35]。更に「唐義士伝」で特筆されるのは「事情を知った皇帝が激怒して楊リンチェンキャプを捕らえさせた」とする点で、ここで大元ウルス朝廷は「発陵」に対して完全に無罪であるという認識が示されている[36]

更に時代が下って清代に入ると蒋士奇は『冬青樹』の中で「唐義士伝」を題材とした史劇を著し、「義挙によって幸福な生涯を送った唐珏」と「発陵を行ったことによる天罰を受け非業の死を遂げた楊リンチェンキャプ」という分かりやすい勧善懲悪の筋書きは広く受け容れられるに至った[37][38]

総じて「発陵」は本質的には「旧政権の残滓の処分」という目的のため政府の公認の下実施されたものであって、「楊リンチェンキャプ個人の私利私欲によって起こされた悪逆非道な事件である」という理解は後世に形作られたものであることには注意が必要である。楊リンチェンキャプの所業は漢民族言論界に衝撃を与え、新興の宗教勢力たるチベット仏教僧への認知度を悪い方向に一挙に持ち上げた[39]。漢民族言論人たちが、ときに非合理的な言述さえいとわず楊リンチェンキャプの奸悪を言いつのったのは、死生観というある社会の精神性の基底に横たわる観念に著しく抵触したことにより「異端」への反発の次元を越えてより根源的な反発を惹起したためであると言える[40]

尊勝塔=鎮南塔[編集]

チベット仏教式仏塔

同時代の文人が楊リンチェンキャプと彼の行った「発陵」をどう見ていたかは、楊リンチェンキャプが南宋故宮跡地に築いた「白塔」にかかる言論に象徴的に示されている。先述したようにこの白塔はチベット仏教に由来する「尊勝塔」という名称で呼ばれていたが、後世の漢人知識人からは「鎮南塔」とも呼ばれていた[注釈 23]。これは『南村輟耕録』の「楊リンチェンキャプは陵墓の南宋諸帝の骨を集め、『塔を築いてこれを圧し、鎮南と名付けた』」という記述に由来し、そもそもは固有名詞として「鎮南塔」と名付けられたものではなかったが、後世の著作ではこの名称が定着していった[41]。『南村輟耕録』の記述がそもそも奇跡譚である以上この逸話は創作でしかないが、ここで南宋陵墓に「鎮南塔」によって「圧し』なければならない力があること、チベット仏教僧の側にも「圧しうる」呪術的な力があることを間接的に認めていることは注目される[42]

この尊勝塔=鎮南塔は知識人の間で著名な存在であったようで、郭界は至大元年(1308年)10月18日に「万寿尊勝塔寺」を訪れ、楊リンチェンキャプの立てた「西番仏塔(=尊勝塔)」を見物したと記録する[43]。この時、郭界は南宋の進土題名石や故宮の石材が石積みに使われていること、龍鳳の彫刻が施された資材の散乱への寂寥感を示し、また「白塔を通じて南宋故宮を望見した」ともいう[44]。このような郭界の記述は、まさしくこの仏塔が南宋政権の権力表彰の否定を象徴していたことを如実に語っている。

その後の記録によると、尊勝塔=鎮南塔は至順2年(1331年)に雷火によって損壊し[注釈 24]、最終的に元末の群雄である張士誠が城を築くに当たって完全に破壊されたという[45]。しかし後世の著作では雷火による損壊と張士誠の破壊を混同し[注釈 25]、やがて雷火すなわち「天の応報」によって仏塔は破壊されたとの認識が定着してゆく[46]

「鎮南塔」にまつわる言説は、この仏塔を旧漢民族政権の皇帝を封圧するための呪術的装置と見なした上で、天の感応力による災異によって破壊されるという結末を求めるものである[47]。このような言説は「鎮南塔」のみならず他のチベット仏教式建築にも向けられており、大都聖寿万安寺の「白塔」が雷雨で焼け落ちた事件が『元史』五行志に収録されているのも、まさに同じような背景があったためと考えられる[注釈 26][48]

「発陵」に対する認識[編集]

チベット史研究者の乙坂智子は、楊リンチェンキャプによる様々な施策は本質的に「被征服者(=旧南宋臣民)の中から政権と利害を一致させる集団(江南仏教界)を掴みだし、彼らの権益を保護するという形をとりながら旧政権の残痕を処理するもの」であったが[49]、漢人社会の文人からは「異端の仏教僧による反儒教 (漢人) 的政策」として読み替えられ[50]、「政権批判」 の枠を超えた倫理的な問題として糾弾対象になっていったと総括する。楊リンチェンキャプの行った施策は「旧政権の残痕の処理」 という点で政権(=クビライ)の承認を得た公的な事業という性格を有していたが[51]、発陵への批判が高まるにつれ政権への直接的批判を避けるため楊リンチェンキャプ個人の悪行として位置づけられていき、後世の「稀代の悪僧・楊リンチェンキャプ」 という評価が定着していったようである[52][53]

「発陵」にまつわる言論の後世への影響として注意すべきは、大元ウルスが「儒教的規範において正当な君主たることが、チベット仏教を媒介として生起する何らかの奇跡的現象によって証明される」 という論理を打ち立てていったことと、楊リンチェンキャプによる発陵事件を巡る漢民族知識人の言論が連動していることである[54]。すなわち、楊リンチェンキャプを批判する言辞の中で「楊リンチェンキャプは天による応報を受けたこと」の裏返しとして間接的に「楊リンチェンキャプは天人たる皇帝の王気を封じる能力を有していた」 ことが認められており、中国皇帝位に関わる神秘的能力をチベット仏教僧が有していたことが暗黙の内に共有されている[55]。「儒教的正当性」が「チベット仏教的奇譚」によって裏付けられるという論理はこうして漢民族知識人の間にも共有されていき、後に明朝皇帝もチベット仏教を重視するようになるのはこのような論理的背景があったためと指摘されている[56]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「楊」がチベット語音の音写でなく漢語姓であることは、息子が「楊暗普」と名乗っていることからも確認される(乙坂2010,188/271頁)。
  2. ^ なお、この総摂(総統)所は少なくとも大徳3年(1299年)まで存続していたが、同年3月に江南行宣政院に統合されたとみられる(野上1978,249頁)。
  3. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元十四年二月]丁亥……詔以僧亢吉祥・怜真加加瓦並為江南総攝、掌釈教、除僧租賦、禁擾寺宇者」
  4. ^ 田汝成の『西湖遊覧志』などによると、咸淳9年(1273年)に南宋の度宗の母隆国夫人黄氏のために設立された寺院で、上・下の両院から成り立っていたという(乙坂2010,222-223頁)。
  5. ^ ただし、至元14年に江南に入った楊リンチェンキャプがなぜ16年頃からこの寺に因む称号を取るようになったのか、禅宗を弾圧する方針を取っていた楊リンチェンキャプがなぜ禅宗系のこの寺院を選んだのか、といった疑問は解決されていない(乙坂2010,222-224頁)。
  6. ^ 『元史』巻13世祖本紀10「[至元二十一年九月]丙申、以江南総攝楊璉真加発宋陵冢所收金銀宝器修天衣寺」
  7. ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「時丞相阿合馬之子忽辛為江浙行省平章政事、恃勢貪穢、亦力撒合発其姦、得贓鈔八十一万錠、奏而誅之。並劾江淮釈教総摂楊輦真加諸不法事、諸道竦動。[至元]二十一年……」
  8. ^ 『元史』巻13世祖本紀10「[至元二十二年春正月]庚辰……毀宋郊天台。桑哥言『楊輦真加云、会稽有泰寧寺、宋毀之以建寧宗等攢宮;銭唐有龍華寺、宋毀之以為南郊。皆勝地也、宜復為寺、以為皇上・東宮祈寿』。時寧宗等攢宮已毀建寺、敕毀郊天台、亦建寺焉」
  9. ^ 『元史』巻14世祖本紀11「[至元二十三年春正月]癸未……従桑哥請、命楊璉真加遣宋宗戚謝儀孫・全允堅・趙沂・趙太一入質」
  10. ^ 『元史』巻148董文用伝には「宋故宮での仏塔建設で時風雨を押して材木の調達が強行されたことから、数百人の使者を出したこと(『元史』巻148列伝35董文用伝,「[至元]二十二年……有以帝命建仏塔於宋故宮者、有司奉行甚急、天大雨雪、入山伐木、死者数百人、猶欲併建大寺。文用謂其人曰『非時役民、民不堪矣、少徐之如何』。長官者曰『参政奈何格上命耶』。文用曰『非敢格上命、今日之困民力而失民心者、豈上意耶』。其人意沮、遂稍寛其期」)」を董文用が弾劾した、と記されている。なお、『金華先生文集』巻11報国寺記によるとこの仏塔建設の命令は至元21年(1286年)に出されていたという(野上1978,255頁)。
  11. ^ 『元史』巻15世祖本紀12「[至元二十五年二月]丙寅……江淮総攝楊璉真加言以宋宮室為塔一、為寺五、已成、詔以水陸地百五十頃養之」
  12. ^ 『元史』巻16世祖本紀13「[至元二十八年]五月戊戌……遣脱脱・塔剌海・忽辛三人追究僧官江淮総攝楊璉真伽等盜用官物」
  13. ^ 『元史』巻16世祖本紀13「[至元二十八年六月]丙戌、敕『屯田官以三歳為満、互於各屯内調用』。宣諭江淮民恃総統璉真加力不輸租者、依例徵輸」
  14. ^ 『元史』巻16世祖本紀13「[至元二十八年冬十月]己丑……敕没入璉真加・沙不丁・烏馬児妻、並遣詣京師。召行省転運司官赴京師、集議治賦法」
  15. ^ 『元史』巻16世祖本紀13「[至元二十八年十一月]乙卯……監察御史言『沙不丁・納速剌丁滅里・烏馬児・王巨済・璉真加・沙的・教化的皆桑哥黨与、受賕肆虐、使江淮之民愁怨載路、今或繫獄、或釈之、此臣下所未能喻』。帝曰『桑哥已誅、納速剌丁滅里在獄、唯沙不丁朕姑釈之耳』」
  16. ^ 『元史』巻17世祖本紀14「[至元二十九年三月]壬戌、給還楊璉真加土田・人口之隸僧坊者。初、璉真加重賂桑哥、擅発宋諸陵、取其宝玉、凡発冢一百有一所、戕人命四、攘盜詐掠諸贓為鈔十一万六千二百錠、田二万三千畝、金銀・珠玉・宝器稱是。省台諸臣乞正典刑以示天下、帝猶貸之死、而給還其人口・土田。隆興府路饑、給鈔二千錠、復発粟以賑之」
  17. ^ 『元史』それ自体は大元ウルスを滅ぼした明朝による編纂物であるが、『元史』は極めて短期間で編纂されたために『元朝実録』等元代の編纂物をそのまま引用している箇所が多く、結果としてモンゴル朝廷の見解をそのまま伝えていることが多いと考えられている(乙坂2010,199頁)。
  18. ^ 南宋時代には儒教的伝統への回帰から遺体を火葬する仏教を忌避する記述があり、著名な政治家文人である司馬光が火葬反対論者であったことは注目される(乙坂2010,238-239頁)。
  19. ^ 例えば、12年にモンゴル朝廷を訪れたルブルックの記録に「死者への追憶と敬慕の故にその頭骨で酒器を作る」というチベットの風習が記録されている。これに関連して 「発陵」 に際して楊リンチェンキャプが理宗の頭骨を持ち帰ったとの記録があるが、 チベット文化圏の人間にとってはこの行為が悪事と認識されていなかったと見なせる(乙坂2010,274頁)。
  20. ^ 至元26年(1289年)付の飛来峰碑文では「永福楊リンチェンキャプ総統」が「黄金像」を開整したと記され、至元29年(1292年)付の阿弥陀仏三尊像題記では「永福大師楊リンチェンキャプ」が皇帝・ココジンカマラテムル太子の寿福を祈祷するため仏像を開整したと記される乙坂2010.226-227頁)。
  21. ^ 『元史』巻17世祖本紀14「[至元三十年]二月己丑、従阿老瓦丁・燕公楠之請、以楊璉真加子宣政院使暗普為江浙行省左丞」
  22. ^ 『元史』巻17世祖本紀14「[至元三十年五月]丙寅、詔委官与行省官閱覈蛮夷軍民官。以江南民怨楊璉真珈、罷其子江浙行省左丞暗普」
  23. ^ 例えば、『嘉靖仁和県志』では「尊勝塔」と「鎮南塔」の二つがあったかのように記されるが、これは誤りで両者は同一の存在である(乙坂2010,249-250頁)。
  24. ^ 同時代の文人による記録ではこの事件の記述についてばらつきがあり、「雷火で焼けた」とするもの、「雷震」はあったとするが焼けたとは記さないものが混在する。むしろ、このあやふやな伝承が「天の応報である」と見出したがる心理が後世の伝承を形作っていったと考えられる(乙坂2010,288-289頁)。
  25. ^ 例えば、自ら張士誠による破壊を目撃したはずの王逢は 「羊児年犬児月、 霹靂一声天地を裂く」と述べ、羊児年=至順2年(1331年) の落雷という応報によって仏塔が破壊されたかのように記載する(乙坂2010,260頁)。
  26. ^ 『元史』巻51五行志2火不炎上,「[至正二十八年]六月甲寅、大都大聖寿万安寺災。是日未時、雷雨中有火自空而下、其殿脊東鰲魚口火焰出、仏身上亦火起。帝聞之泣下、亟命百官救護、唯東西二影堂神主及宝玩器物得免、餘皆焚燬。此寺旧名白塔、自世祖以来、為百官習儀之所。其殿階闌楯一如内庭之制」

出典[編集]

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  54. ^ 乙坂2010,268頁
  55. ^ 乙坂2010,268-269頁
  56. ^ 乙坂2010,269-270頁

参考文献[編集]

  • 乙坂智子「楊璉真伽の発陵をめぐる元代漢文文書:チベット仏教に対する認知と言論形成の一側面」『横浜市立大学論叢』人文科学系列61(1)、2010年
  • 野上俊静『元史釈老伝の研究』野上俊静博士頌寿記念刊行会、1978年
  • 村岡倫「元代モンゴル皇族とチベット仏教:成宗テムルの信仰を中心にして」『仏教史学研究』第39巻1号、1996年