林玄仲

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はやし げんちゅう
林 玄仲
Monument of Genchu Hayashi.jpg
林玄仲翁頌徳碑
生誕 大形半次郎
寛政7年6月27日
1795年8月11日
志摩国答志郡穴川村
死没 (1878-08-21) 1878年8月21日(83歳没)
大阪府
死因 病死
墓地 三重県志摩市磯部町穴川穴川共同墓地
記念碑 林玄仲翁頌徳碑(三重県志摩市磯部町恵利原
国籍 日本の旗 日本
民族 大和民族
職業 医師度会府役人
活動期間 江戸時代 - 明治時代
著名な実績 義倉講金の創設
影響を与えたもの 志摩郡の住民
宗教 仏教
配偶者 御柳
子供 純造
父:大形宗吉
母:大形つじ

林 玄仲(はやし げんちゅう、寛政7年6月27日1795年8月11日〕 - 明治11年〔1878年8月21日)は、江戸時代医師として、明治時代度会府役人として活動した人物。誠実にして質素な生活を心がけたことで巨額の富を築き、永代義倉講金を創設して、郷土の人々に恩恵をもたらした[1]

経歴[編集]

寛政7年6月27日(グレゴリオ暦:1795年8月11日)に父・宗吉、母・つじの間に大形家の長男として、志摩国答志郡穴川村(現・三重県志摩市磯部町穴川)に生まれる[2]幼名は大形半次郎であった[1]。宗吉・つじ夫妻は結婚後数年を経ても子供ができなかったため、佐美長神社に祈願してようやく授かった子が半次郎であったという[3]孝行息子の半次郎は父母を助け、農作業をする日々を送っていたが、17歳の時に医学を志して江戸に上った[1]

江戸に上った半次郎は、伊予国今治藩侍医である林玄曠の知遇を得て文化12年(1815年)に玄曠の養子となり、禄高100石30人扶持となった[1]。この時、名を林玄仲と改めた[4]は忍種杏園である[1]天保9年(1838年)には江戸幕府奥医師となり、多くの大名から信頼を得ていた[1]。奥医師時代に御柳と結婚した[1]麹町三丁目に居住していた時代があり、自宅付近の坂道石畳舗装して雨天時の通行も容易にしたことから、その坂は「玄仲坂」と呼ばれるようになった[1]

幕末に奥医師を辞し、伊勢国山田(現・三重県伊勢市)へ引っ越す[1]。ここで度会府知事橋本実梁に請われて度会府・度会県の役人となり、府政・県政に参与した[1]。役人時代も玄仲の自宅には多くの患者が治療してほしいと訪れたという[5]

老後は生まれ故郷の穴川村に帰り、地域の子供達を教育する[1]とともに郷土の発展に努めた[4]。特に慶応元年(1865年)には金750両を拠出して「永代義倉講金」を創設し、村に預金することで発生する利子[4]雑穀類を買って蓄えておき[1]、窮乏する村人の救済に充てた[4]。その恩恵は志摩国磯部加茂神明立神にまで及んだ[4]。明治9年(1876年)には「永代義倉講金」に250両を追加投入して1000両に増加させた[1]。「永代義倉講金」は学制発布による磯部の村々に設置された学校(後に統合され志摩市立磯部小学校となる)の設置資金となった[5]

明治10年(1877年)、息子・純造の住む大阪へ移り、老齢のため病気にかかり、翌明治11年(1878年)に亡くなった[1]

人物[編集]

粗衣粗食を心がけ、食事はを半分搗いた「半搗米」を食べ、周りの人にも勧めていた[5]。半搗米がまずいと言った人には「うまくなければ、一飯抜けばいい」と返したという[5]。質素な生活を徹底したため、来客時にもてなすはおろか、茶器すらなかったと伝えられる[1]

墓所と供養[編集]

は志摩市磯部町穴川の北方の丘の上にある[6]穴川共同墓地内にある[4]。墓碑には、表面に「齢仙院玄仲居士 文久癸亥年自建之」、背面に「一切衆生罪滅生善」と刻まれ、東脇に「南無妙法蓮華経」、西脇に「南無阿弥陀仏」と記された副碑が建立されている[7]

1900年(明治33年)11月6日に13回忌として磯部村の職員や村の各区長などを招き、安心寺で大法要を行った[1]。磯部町穴川では毎年8月15日に安心寺にて玄仲の追善供養のために施餓鬼を行っている[1]

頌徳碑[編集]

志摩市立磯部小学校正門前に林玄仲翁頌徳碑がある[8]。頌徳碑は磯部村の当時の村長・西村源之助らが発起人となり、1898年(明治31年)に玄仲の生まれ故郷である磯部町穴川に建てられた[8]。ほどなく磯部町上之郷磯部町川辺の境界付近、御幸道(ごこうみち、現国道167号)沿いに移ったが、1929年(昭和4年)に志摩電気鉄道(現近鉄志摩線)の建設のために磯部尋常高等小学校(現・志摩市立磯部小学校)前に移った[8]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 磯部郷土史刊行会 編(1963):263ページ
  2. ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):263ページ
  3. ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):263 - 264ページ
  4. ^ a b c d e f 議会広報特別委員会 編(2013):1ページ
  5. ^ a b c d 中野(1981):82ページ
  6. ^ 井爪・道坂(1984):156ページ
  7. ^ 井爪・道坂(1984):156 - 157ページ
  8. ^ a b c 井爪・道坂(1984):157ページ

参考文献[編集]

  • 磯部郷土史刊行会 編『磯部郷土史』磯部郷土史刊行会、昭和38年5月10日、506p.
  • 井爪伊造・道坂浅太郎『天の岩戸 いそべ史話』いそべ志友会、昭和59年11月吉日、184p.
  • 議会広報特別委員会 編『しまし議会だより第36号』志摩市議会、2013年10月31日、16p.
  • 中野順蔵『神路川 磯部小史』三光社装幀印刷、昭和56年4月、273p.

関連項目[編集]