松浦信英
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時代 | 江戸時代 |
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死没 | 享保9年8月23日(1724年10月9日) |
改名 | 松浦半弥、酒之丞[1] |
戒名 | 玄忠[1] |
幕府 | 江戸幕府 書院番士、桐間番、近習番、小姓、使番、寄合、先鉄砲頭 |
主君 | 徳川綱吉、家宣、吉宗 |
氏族 | 平戸松浦氏 |
父母 | 父:松浦信正 (市左衛門)、母:松浦八郎左衛門娘 |
兄弟 | 松浦信福、信正 (河内守)、星合顕行妻、青山幸増妻 |
妻 | 松浦内匠娘 |
子 | 女子、松浦信尹(養子) |
松浦 信英(まつら のぶひで)は江戸時代の旗本。小姓、使番、先鉄砲頭等を歴任した。
経歴
[編集]松浦信正 (市左衛門)の長男として生まれ、天和3年(1683年)3月19日徳川綱吉に御目見した[1]。元禄4年(1691年)12月2日書院番士となり、元禄5年(1692年)3月25日桐間番、9月11日近習番に転じ、10月3日小姓となった[1]。
元禄11年(1698年)7月3日蔵米の代わりに武蔵国久良岐郡・相模国鎌倉郡内600石の知行地を与えられた[1]。12月5日家督を継いで計1,300石となったが、その内300石は蔵米として父の隠居料に充てられた[1]。
宝永6年(1709年)綱吉が死去し、2月21日寄合に列した[1]。正徳3年(1713年)7月18日使番となり、享保2年(1717年)1月15日巡見使として駿河国・近江国・三河国・尾張国・伊賀国・伊勢国・志摩国・甲斐国・信濃国・飛騨国・美濃国等を回った[1]。享保4年(1719年)12月11日先鉄砲頭となり、享保9年(1724年)2月19日辞任、8月23日死去した[1]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』 第3輯、国民図書、1923年。NDLJP:1082714/251