東光デパート

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株式会社 東光デパート[1][2][3][4]
本社所在地 日本の旗 日本
岩手県一関市大町77[2][3]
設立 1956年昭和31年)12月[2][3]
業種 小売業
事業内容 百貨店[1][4]
代表者 伊藤新右衛門(社長)[1][4]
資本金 4000万円[2][3]

4500万円[1][4]

9000万円[5]
従業員数 120[1]
決算期 8月[1][2][3]
主要株主 伊藤新右衛門7.5%[2]
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東光デパート
店舗概要
所在地 岩手県一関市大町77[6]
開業日 1956年昭和31年)12月16日[7]
閉業日 1974年(昭和49年)5月29日[9]
敷地面積 1,593 m²[4]
延床面積 6,037 m²[10] 
商業施設面積 2,630 m²[11]
前身 一関郵便局[8][注 1]
最寄駅 一関駅
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東光デパート(とうこうでぱーと)は、岩手県一関市大町にあった日本の百貨店である[4]

歴史・概要[編集]

伊藤新右衛門が発起人となって[7]1956年昭和31年)12月に岩手県一関市大町に資本金4000万円で「株式会社 東光デパート」を設立し[4]、同月16日に「東光デパート」を開設したのが始まりである[7]。一関では「千葉久」や「福原」と共に一関の三大百貨店などと称された[12]

1957年(昭和32年)3月4日東北銀行一関支店が当店内に移転した[13]

1959年(昭和34年)10月に資本金を4500万円に増資した[7]

1967年(昭和42年)12月31日に取灰の余熱による発火で鉄筋コンクリート造地上5階建ての建物が全焼し[14]、一時閉店に追い込まれた[5]

1969年(昭和44年)10月10日に店舗を新築して再開店した[15]

しかし、この店舗再開の投資による負担や一関での競合する大型店の出店が相次いだこともあり、業績が伸び悩むことになった[5]。 その結果1977年(昭和52年)8月期に年商12億6000万円で約2億1000万円の累積損失を抱え込むことになった[5]

そうした経営難からの脱却を目指してエンドーチェーンと資本・業務提携の交渉を進めていたが、経営陣の一部が反対したことから、実現しなかった[5]

1978年(昭和53年)11月3日に約2900万円の不渡手形を出し[16]、同月17日に盛岡地方裁判所一関支部に会社更生法の適用を申請して破綻した[17]。負債総額約10億円[18]。 ところが、1979年(昭和54年)2月2日和議による解決を図るため会社更生法の適用取下げを申請し、同月16日に会社更生法の取下げ許可を受け、和議申請と財産保全処分を申請した[19]

そして、同年3月13日三春屋と業務提携に正式に調印して再建を目指すことになり[19]、同年5月11日に盛岡地方裁判所一関支部が和議手続きの開始を決定し[20]、同年6月29日に盛岡地方裁判所一関支部により和議認可が決定された[21]

1981年(昭和56年)に三春屋が当社をダイエーに譲渡したことから、同社の傘下に入った[22]

そして、当社が移転・増床する形で一関市の区画整理事業で建設される「一関ショッピングセンター2号館」へ出店する計画が進められ[11]、「一関ダイエー」が出店した[23]

その後、2002年(平成14年)5月31日にダイエー一関店が閉店[24]。閉店後は引き続き東北銀行一関支店とパチンコ店「NICE」は営業を続けたほか、店舗跡がダイエーから一関市に無償譲渡されたため、地元の出資で2005年(平成17年)6月に設立された一関まちづくり株式会社が[25] 後継テナントとして7月21日に食品などを販売する「新鮮館おおまち」を1階にオープンした[26]。さらに、公設民営方式のコミュニティFM局一関コミュニティFM(愛称はFMあすも)が旧ダイエー一関店に入居、2012年(平成24年)4月29日に開局した[27]

年表[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1911年明治44年)12月20日に当地に移転し、1957年(昭和32年)3月4日に地主町に移転した[8]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 一関市史編纂委員会 『一関市史 第4巻 地域史』 一関市、1977年3月30日。pp85
  2. ^ a b c d e f 『帝国銀行・会社要録 第38版』 帝国興信所、1957年。pp岩手県6-7
  3. ^ a b c d e 『国勢総覧 第18版』 国際連合通信社、1958年11月1日。pp706
  4. ^ a b c d e f g h 『日本繊維商社銘鑑 1969年版』 東京信用交換所、1968年。pp1216
  5. ^ a b c d e f 小林武彦 “最新倒産データ”. 近代中小企業 1979年1月号 (中小企業経営研究会) (1979年1月).pp105
  6. ^ 『消防年報 昭和42年版』 岩手県、1968年3月31日。pp61-62
  7. ^ a b c d e f 一関市史編纂委員会 『一関市史 第4巻 地域史』 一関市、1977年3月30日。pp86
  8. ^ a b 一関市史編纂委員会 『一関市史 第4巻 地域史』 一関市、1977年3月30日。pp133
  9. ^ 『栃木年鑑 昭和50年版』 栃木新聞社、1975年3月31日。pp37
  10. ^ 『岩手県商工業振興基本計画 昭和56年3月 別冊』 岩手日報社、1981年3月。 pp125
  11. ^ a b “江釣子SCに食われた北上市商店街 再開発計画に便乗の大型店、地元と摩擦”. とうほく財界1983年9月号 (東日本出版) (1983年9月).pp32
  12. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 『角川日本地名大辞典 3 岩手県』 角川書店、1985年3月8日。ISBN 978-4040010304
  13. ^ a b 一関市史編纂委員会 『一関市史 第4巻 地域史』 一関市、1977年3月30日。pp90
  14. ^ a b 渋沢偉 『スズラン百貨店前橋店の防災管理』 季刊 防火 第21号 (日本防火・防災協会) (1974年2月28日). pp29
  15. ^ a b 一関市史編纂委員会 『一関市史 第4巻 地域史』 一関市、1977年3月30日。pp87
  16. ^ a b 岩手県警察史編さん委員会 『岩手県警察史 第3巻』 岩手県警察本部、1996年3月31日。pp1390
  17. ^ a b 『労政年報 昭和53年度』 岩手県商工労働部労政課、1979年。pp79
  18. ^ a b “債権回収の困難時代”. 近代中小企業 1979年3月号・特別付録・債権回収マニュアル (中小企業経営研究会) (1979年3月).pp5
  19. ^ a b c d e 『労政年報 昭和53年度』 岩手県商工労働部労政課、1979年。pp80
  20. ^ a b 『労政年報 昭和54年度』 岩手県商工労働部労政課、1980年。pp85
  21. ^ a b 『労政年報 昭和54年度』 岩手県商工労働部労政課、1980年。pp86
  22. ^ a b “中三・二戸店がダイエーとFC契約”. とうほく財界1983年4月号 (東日本出版) (1983年4月).pp50
  23. ^ 福原庄蔵 “近代化を模索する街”. 岩手経済研究 1990年12月号 (岩手経済研究所) (1988年11月).pp26
  24. ^ 『読売年鑑 2003年版』 読売新聞社、2003年2月。ISBN 978-4643030013
  25. ^ “旧ダイエー店に本店〜「一関まちづくり会社」創立”. 岩手日日 (岩手日日新聞社). (2005年6月1日)
  26. ^ “一関の旧ダイエーに「新鮮館おおまち」オープン”. 岩手日日 (岩手日日新聞社). (2005年7月21日)
  27. ^ “一関に地域FM局が4月開局 災害情報に主眼”. 河北新報 (河北新報社). (2012年3月1日)