東亜大学 (開校しなかった大学)

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東亜大学(とうあだいがく)は、1910年代に開学が計画されながら実現しなかった日本ミッション系大学

概要[編集]

エディンバラ宣教会議(1910年)

1910年エディンバラ宣教会議が開かれる。このことをきっかけとして日本国内で教派を超えた連合大学を開学することが計画されるようになる。明治学院東京学院聖学院が中心となり計画が進められた。当初は同志社も協議に加わっていたが途中離脱し、立教学院は連合大学に協力してもいいが自治独立の権利を保留したいとの見解を示した[1]青山学院は在来の高等科を廃止するという条件に難色を示したが、青山学院の後援者たるジョン・F・ガウチャーが推進論者だったため微妙な立場に置かれることとなった[2]

連合大学構想の第一歩として、まず1913年から明治学院高等学部と東京学院が合同授業を開始し、合併後の校名を「大正学院」とすることが議された[3]1915年には井深梶之助ライシャワー高木壬太郎新渡戸稲造佐藤昌介らが中心となって大学を設置する常任委員会が設置され、7月1日の委員会(ガウチャー列席)で東亜大学を開学させることが決議される。

だが会衆派同志社大学を、聖公会立教大学を独自に発展させようとし、関西学院もまた独自の計画を進めようとしていたこと、さらに大学令が公布されたことで青山学院も独自の大学を開学させることとしたため、東亜大学は開学されないこととなった[4][5]。また、先述の明治学院高等学部と東京学院の合同授業も1917年3月をもって終了した[6]

脚注[編集]

  1. ^ 青山学院150年史編纂本部・編纂委員会、青山学院資料センター150年史編纂室 『青山学院一五〇年史』 資料編Ⅰ、学校法人青山学院、2019年、265-274頁
  2. ^ 『青山学院九十年史』青山学院、1965年、367-372頁。 
  3. ^ 『明治学院百年史』明治学院、1977年、293-295頁。 
  4. ^ 『青山学院九十年の歩み』青山学院、1964年、117-119頁。 
  5. ^ 『青山学院九十年史』青山学院、1965年、382-386頁。 
  6. ^ 『明治学院百年史』明治学院、1977年、296頁。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]