村上精一

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村上 精一(むらかみ せいいち、1883年明治16年〉11月2日 - 1959年昭和34年〉9月10日)は、日本英語学者青山学院大学教授、青山学院専門部文学部長、青山学院高等部長。

来歴[編集]

1883年11月2日静岡県引佐郡細江町に生まれる[1]静岡県立浜松中学校を経て、1903年4月、青山学院高等科に入学する[1][注釈 1]1906年3月に卒業し、同年5月から秋田県立本荘中学校の教諭となる[1]1910年9月に依願免職、同年10月からアメリカ合衆国インディアナ州デポー大学に入学する[1]。1913年6月に卒業し、B.A.の学位を受ける[1]。同年9月、イリノイ州シカゴ大学に入学し、1916年3月にM.A.の学位を受け[1]、同年9月に卒業、B.D.の学位を受ける[3]

1918年4月、青山学院中学部教員・神学部講師となる[3]1919年4月、青山学院高等学部英語師範科長となり、1924年4月から青山学院教会日曜学校長を兼任する[3]1932年11月3日の青山学院創立五十周年に先立ち、『青山学院五十年史』の編集委員として、1930年9月18日に開催された第1回編集委員会に招集される[4]1935年4月から青山学院専門部文学部長に[5]1940年9月から青山学院中学部長に[6]1950年3月から青山学院高等部長となる[3]1952年4月、青山学院本部所属となり、大学教授となる[3]1954年3月、専任教授を退職し非常勤講師となる[3]1958年3月、退職する[3]

1959年9月10日、死去する[3]9月14日に青山学院本部礼拝堂で葬儀が行われる[3]

人物[編集]

  • 体が大きかったため、「熊さん」の愛称で親しまれていた[2]

著作[編集]

  • 青山学院五十年史編纂委員会 編「高等科の回顧」『青山学院五十年史』青山学院、1932年11月、134-137頁。 NCID BN06376332全国書誌番号:46076175 
  • 青山学院五十年史編纂委員会 編「英語夏期講習会史」『青山学院五十年史』青山学院、1932年11月、297-300頁。 NCID BN06376332全国書誌番号:46076175 
  • 「和田正幾先生逝く」『英語青年』第69巻第5号、研究社、1933年6月、171頁、全国書誌番号:00002090 NDLJP:4434793 

記念集[編集]

  • 青山学院校友英語文化懇談会 編『村上精一先生という人』千城書房、1963年9月10日。 NCID BA51443228 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 同級生には、都築東作(北海道大学予科教授)、成田潔英(製紙博物館館長)、宮沢六郎(牧師)、山田惣七(陸軍大学校教授・第一高等学校講師)などがいる[1][2]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g 倉長 1963, p. 152.
  2. ^ a b 鈴木 1987, p. 22.
  3. ^ a b c d e f g h i 倉長 1963, p. 153.
  4. ^ 九十年史 1965, p. 434.
  5. ^ 九十年史 1965, p. 443.
  6. ^ 九十年史 1965, p. 450.

参考文献[編集]

  • 青山学院 編『青山学院九十年史』青山学院、1965年9月20日。 NCID BN03264988 
  • 倉長真 著「村上精一先生の年譜」、青山学院校友英語文化懇談会 編『村上精一先生という人』千城書房、1963年9月10日、152-153頁。 NCID BA51443228 
  • 鈴木彦四郎「思い出の英語教師」『日本英語教育史研究』第2巻、日本英語教育史学会、1987年5月1日、17-36頁、doi:10.11222/hisetjournal1986.2.0_17NAID 130001929781