李翰 (唐)

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李 翰(り かん、生没年不詳)は、中国官僚文人本貫趙州賛皇県

経歴[編集]

李華の子として生まれた。進士に及第し、衛尉寺に出仕した。陽翟県令の皇甫曾が音楽を求めていたことから、李翰は即興で音楽を奏し、ひらめきのままに文章を作った。天宝末年、房琯韋陟が李翰を史官に推挙したが、宰相にしりぞけられた。安禄山の乱が起こると、李翰は友人の張巡に従って宋州の客となった。757年至徳2載)、張巡は睢陽で反乱軍の包囲を受け、粘り強く抗戦したが、食糧が尽きて陥落した。張巡は節に殉じて死んだが、反乱軍に降伏したものと伝わり、粛宗も実際のところを知らなかった。李翰は張巡の功状を伝え、張巡の死節を擁護する上表をおこなった。

上元年間に衛県尉となり、入朝して侍御史となった。左補闕・翰林学士に累進した。大暦年間に病のため免官され、陽翟で客死した。著書に『張巡姚誾伝』2巻[1]・『蒙求』3巻[2]・『前集』30巻[3]があった。

脚注[編集]

  1. ^ 新唐書』芸文志二
  2. ^ 宋史』芸文志六
  3. ^ 『新唐書』芸文志四

伝記資料[編集]

  • 旧唐書』巻190下 列伝第140下 文苑下
  • 新唐書』巻203 列伝第128 文芸下