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朝比奈泰長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
朝比奈泰長
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄5年11月29日1562年12月25日
別名 氏泰[1]
戒名 深雲全功大居士[2]
墓所 静岡県湖西市正太寺
官位 紀伊守(受領名)
主君 今川義元氏真
氏族 朝比奈氏
父母 朝比奈時茂
兄弟 親孝泰長元智[3]
泰充真次
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朝比奈 泰長(あさひな やすなが)は、戦国時代武将今川氏の家臣。遠江国宇津山城主。朝比奈泰能は従弟にあたる。

略歴

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朝比奈時茂下野)の次男。永禄年間、浜名湖西岸に位置する遠江宇津山城主[4]として、三河国・遠江国の国境付近を守備し、特に三河国東部八名郡に睨みを効かせていた。

永禄4年(1561年)、松平元康(徳川家康)が今川氏から独立のため、東三河国人領主を調略して蜂起させはじめると、すぐに出陣。三遠国境を越えて同年9月11日(新暦10月6日)に三河八名郡の国人西郷氏五本松城を急襲し、城主・西郷正勝及び救援に戻った嫡子で月ヶ谷城主の元正を討ち取っている[5]。しかし、翌永禄5年(1562年)2月(旧暦)には正勝の次男・清員率いる徳川軍と、豊川沿岸の八名郡勝山周辺ついで同郡賀茂[6]において再び戦ったが敗れ、清員に西郷氏領を奪還されている[7]

同年11月晦日に死去[8]、宇津山の正太寺に葬られた。

跡は長男・孫太郎泰充[9]が継いだが、翌永禄6年9月21日(1563年(新暦)10月8日)に弟(泰長の次男)・真次[10]に殺害され、以後、真次が宇津山城主となり紀伊守を称したとされる。真次は徳川氏に恭順した三河宝飯郡伊奈城本多忠俊の長女を室としていたため徳川家康への内通説がある。このためか泰長の系統は真次の子孫が江戸時代には幕臣として存続している。

系譜

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脚注

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  1. ^ 小和田哲男 著 『今川義元のすべて』(新人物往来社刊)所載の朝比奈氏系図によるが、氏泰を泰長の父とする説もある。
  2. ^ 正太寺に追善墓がある。
  3. ^ こちらより。
  4. ^ 柴屋軒宗長の『宗長手記』等によれば、同城は大永年間に今川氏家臣・長池親能、あるいは朝比奈泰満(紀伊守)により築城されたと云い、静岡県湖西市入出の宇津山とその山麓の正太寺周辺に城趾が残る。
  5. ^ この戦いの発生日は『寛政重修諸家譜』第369巻の西郷正勝の項の傍注に『寛永諸家系図伝』が永禄5年とするものを、貞享呈書の御書(判物)及び寛政の呈譜の記述に従ったと記す。
  6. ^ いずれも豊橋市内。
  7. ^ 『寛政重修諸家譜』第369巻の西郷清員の項、および「士林泝洄」巻第26・丁之部1(松平甚太郎衆)所収、西郷氏系図の清員の項による。但し、寛政譜はこれらの合戦を永禄7年(1564年)の発生とする。
  8. ^ →大久保俊昭著 『戦国時代の今川氏 第五集』。
  9. ^ 孫七郎とも。
  10. ^ 孫六郎・別名に直次とも。

関連項目

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