牛窪密談記

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牛窪密談記(うしくぼみつだんき)は、牛窪記中神善九郎行忠(生年不詳 - 1711年)が加筆訂正した東三河郷土史料。

概要[編集]

1701年元禄14年)成立。牛久保の沿革、牧野氏の事跡などを収録。巻末に山本勘助の伝記が記載。「牛久保密談記」と表記がされている場合もある。豊橋市中央図書館所蔵。

豊橋市中央図書館の登録情報では、著者は中神善九郎行忠・成立年は元禄14年とされているが、『国書解題』[1]によると、著者年代共に詳らかならずといえども、天明元年に作成した「円光大師由来記」を載せていることから、近世に集録したものであると断定している。

また、熱田神宮菊田家所蔵には、「著者名・中神/行忠 ? 」江戸中期写本。津山郷土博物館(愛山文庫)には「【外題】牛久保密談記異本附完【内題】牛窪記 著者中神/善九郎/行忠 天保14 昌谷精渓校」となっている。ことから、天保14年には、存在していることがわかる。

「牛窪記」と「牛窪密談記」では記述の異なる場所があり、それが加筆および訂正部分である[2]

牧野家の丑年吉事について[編集]

牧野家先祖とする牧野古白明応2年(1493年長山一色城に入城した際、その道すがら牛頭天王社の金色清水の窪溜まり付近に道を塞いで寝牛がおり、人々の通行を妨げていたが、古白が来ると牛は起きあがり道を空けたので、牛頭天王の加護がある瑞祥として、地名を一色トコサブ(常荒)から牛窪と改めたという伝説が本文前段で紹介されている。

以後、牧野家では丑年はめでたいことがある年とされ、その記録をまとめたものが、本文後段に掲げられている。しかし、史実か否か、疑問視される記述もある。以下にその内容各項を示す。

牧野家丑年吉事

脚注[編集]

  1. ^ 佐村八郎編『国書解題』(1897~1900年刊)
  2. ^ 「牛窪記」の記述によれば、文亀年中の事として今川義元牛久保六騎・地侍十七人衆に三河今橋辺(豊橋市今橋町)に築城を指示し、牧野氏を奉行とした。吉田城主に牧野田三以下の牧野氏が守護することになったという。しかし「牛窪密談記」では、この記事を間違いとして、命令者の今川義元を今川氏親、城名の吉田城を今橋城、城主の牧野田三を牧野成時にそれぞれ是正している。

関連項目[編集]

参考文献[編集]