朝日行安

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朝日行安
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正6年(1588年
官位 左衛門尉(受領名)
主君 浪岡氏南部氏
氏族 藤原氏万里小路氏朝日氏?
父母 朝日高義
兄弟 樺山(樺沢?)団右衛門行貞?
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朝日 行安(あさひ ゆきやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将津軽朝日氏当主。陸奥国飯詰城主。

出自[編集]

津軽朝日氏は、後醍醐天皇の側近万里小路藤房の後裔とされる。津軽に下向した藤房の子・景房が朝日氏を称し、興国5年/康永3年(1344年)に飯詰城を築いた。その後は浪岡氏、大光寺南部氏に従ったとされる。ただし、この伝承は偽書である『東日流外三郡誌』の影響を受けた書物でしか確認できない。

略歴[編集]

元亀2年(1571年)頃、南部氏から独立した大浦為信が次々と津軽地方の国人領主を滅ぼしていく中、行安は飯詰城主として抵抗した。

しかし、天正16年(1588年大浦氏により飯詰城は包囲され、行安を初め朝日一族は籠城した。兵糧の蓄えがあったが、為信により城内に通じる水脈を絶たれた。そのため、白米で馬を洗って見せるなど必死の抵抗をするも見破られ、数日後に飯詰城は落城した。行安は自害し、一族も徹底的な捜索の末に惨殺され朝日一族は滅亡した。その後、城址周辺では、鎧武者や女の亡霊が現れたり、日照りや長雨などの天候不順に見舞われ、朝日一族の祟りと噂された。

ただし、この伝承も『東日流外三郡誌』の影響を受けた書物でしか確認できず信憑性が低い。

出典[編集]

  • 「青森県人名大事典」1969年 東奥日報社
  • 日本の城・封印されたミステリー ガイドブックが書かない「秘められた歴史」 2007年 PHP文庫 平川陽一