飯詰城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
飯詰城
青森県
別名 高楯城、高館城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 伝・藤原景房
築城年 1344年興国5年/康永3年)
主な改修者 不明
主な城主 朝日氏
廃城年 1588年天正16年)
遺構 郭・土塁
指定文化財 なし
位置 北緯40度49分33.8秒 東経140度29分44.0秒 / 北緯40.826056度 東経140.495556度 / 40.826056; 140.495556
地図
飯詰城の位置(青森県内)
飯詰城
飯詰城
テンプレートを表示

飯詰城(いいづめじょう)は、青森県五所川原市飯詰にあった日本の城平山城)。

概要[編集]

西郭・主郭・東郭からなる平山城である。主郭は、北の糠塚川を堀とし、東西に広がる標高58.8mほどの高台にある。江戸時代の記録にも、「古城二十五間百四十間」(高楯城物語記載の貞永元年絵図)、「一古館 五反七畝歩 三箇所」(陸奥国津軽郡田舎庄飯詰村御検地二冊寄帳)とある。

城主は、寛政5(1793)年に編纂された『津軽編覧日記』の『古城古館之覚』という項に、

一、飯詰村ニ山城有、館主朝日左衛門尉と云(割書)一説朝日佐殿共有

とあるのみである。

(注:『陸奥史談第四輯』では割書を『一説朝日佐藤共有』としている)

歴史[編集]

康永3年(興国5・1344年)、万里小路藤房の息子朝日景房が築城したとされる(飯詰村史[注釈 1])。その後、朝日氏は浪岡氏に仕えた。天正16年(1588年)、津軽統一をもくろむ大浦為信の攻撃により、落城し、万里小路藤房より十代目の城主朝日行安は自害し、飯詰城は廃城となった。この城には、落城の際の白米伝説(詳しくは朝日行安を参照)や糠塚川に鎧を捨て、逃亡を企てたが、力尽き、主従は自害したという逸話が残っている[注釈 2]。なお、「鎧留」の地名はその話に由来するという。また、落城の際に大浦方の道案内をした人物として、対馬右衛門太郎の名を挙げ、尻無方面(五所川原市)から攻め入ったという(方々由緒書)。また、阿部孫三郎信友の名をあげる資料もある(金木郷土史)。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 但し、執筆者の福士貞蔵宅に偽書執筆者として名高い和田喜八郎が出入りしており、福士の著作に和田が提供した書籍(和田の著作と考えられる『諸翁聞取帳』など)が参考文献として使用されており、留意を要する。
  2. ^ 但し、和田喜八郎が創作したものの可能性が高いため注意する必要がある。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 日本の城郭大系(1980) 新人物往来社 菅英志

関連項目[編集]