有本松太郎
有本 松太郎 ありもと まつたろう | |
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生年月日 | 1863年2月24日 |
出生地 | 但馬国二方郡(現兵庫県美方郡新温泉町) |
没年月日 | 1941年5月13日(78歳没) |
前職 | 土木請負業 |
在任期間 | 1918年 - |
有本 松太郎(ありもと まつたろう、文久3年1月7日(1863年2月24日) - 昭和16年(1941年)5月13日[1])は、日本の実業家、政治家。皆生温泉土地社長[2]。米子電気軌道代表取締役[2]。元鳥取県議会議員。元米子市議会議員。地主[3]。皆生温泉の基盤を築いた[4]。
経歴
[編集]土木請負業者として
[編集]但馬国二方郡(現新温泉町田君[4])に生まれた[5]。有本清太郎の弟[6]。
明治14年(1881年)つるはし1本担いで鳥取に出て土木工事に従事して以来、各地を転々とするうち、明治37年(1904年)日露戦争中の満州に渡り、鉄道工事を請け負い多くの財を得た[5]。明治26年(1893年)分家して一家を創立する[6]。
明治末頃には、山陰線鉄道工事の関係で米子に住むようになった[4]。
大正7年(1918年)鳥取県会議員に当選し、土木請負業を菊地甚五郎に譲った[4]。
皆生温泉の開発
[編集]松太郎は、大正9年(1920年)海中調査を開始し、大正10年(1921年)5月正式に「皆生温泉土地株式会社」を発足させた[4]。同年六月には温泉掘削許可を受けて掘削に取り掛かり、一ヵ月後温泉源(皆生温泉第一源泉)を掘り当てた[4]。
その後、旅館大山館の建設、大正11年(1922年)には乗合自動車会社(8ヶ月で営業権を山陰タクシーに譲渡した)をはじめた[4]。また、大正12年(1923年)には米子皆生間の米子電気軌道株式会社を設立[4]。
旅館をはじめ郵便局、交番などを建て、運動場、競馬場も開いた[5]。
松太郎が大正10年に会社を設立してから、7年間で今日の皆生温泉の基盤が築かれた[4]。昭和9年(1934年)71歳になった松太郎は会社経営から退き、昭和16年(1941年)78歳で亡くなった[4]。
家族
[編集]有本家
[編集]- 大正元年(1912年)12月生[7] - 没
- 米子工業卒[7]。中国電力(株)に入社後各職域を経て昭和26年(1951年)境出張所長、昭和31年(1956年)米子営業所工務課長[7]。趣味は囲碁[7]。住所は米子市皆生[7]。
略系図
[編集]有本松太郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有本武夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史料
[編集]大正5年(1916年)の地主層
[編集]当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった[8]。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである[3]。2000円〜3000円の部に有本松太郎の名前がみえる。
- 1000円〜2000円の部[3]
- 2000円〜3000円の部[3]
- 3000円〜4000円の部[3]
- 4000円〜5000円の部[3]
- 砂田竹太郎、坂江まつの
- 5000円〜7000円の部[3]
- 小坂市太郎、森久太郎、野波令蔵、松浦常太郎
- 7000円〜10000円の部[3]
- 大谷房太郎、平野万寿子、石賀善五郎
- 10000円〜15000円の部[3]
- 15000円〜20000円の部[3]
- 20000円〜25000円の部[3]
- 30000円〜35000円の部[3]
- 35000円〜45000円の部[3]
- 70000円〜100000円の部[3]
- 100000円以上の部[3]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 32頁